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[写真のポリフォニー・texte III:DIALOGUE/BT・美術手帖1990年4月号:79]


texte III:DIALOGUE


I

写真は、実体的なものを現前させるための装置ではなく、写真それ自体が現前する装置なのだと・・・・・。
そう語ったとたん、写真は手段としての写真から、それ自体が目的へと変じる。
写真が手段的存在であったとき、その目的であるもの(実体的なもの)に対して、写真は当然透明でなければならなかった。しかし・・・。
写真それ自体が目的になることによって公然と露わになる事象。
それは、こうした透明化との関連が絶たれること。
つまり、写真は手段的存在としてのみ透明でしかありえなかったのだと

II

すると、写真の透明化を通してあらわれるものと、写真それ自体の特質の顕現をとおしてあらわれるものの間に、すでにある相違が存在していることになる。
その透明さを欠くことによって露わにされた写真そのものとは、それをこえたレヴェルに位置する他の何ものによっても支えられることのない視覚的なものの現前のことであり、その徹底化のことだろう。 しかし――それは、差異と距離の消滅、あるいは痕跡化。
自らの外にいささかも規定根拠をもちえないという意味で、まさに語ることを拒みつづけるそのもののことにほかならない。
ではなぜ、写真はそれ自体について語ることが不可能であるにもかかわらず、語ること自身が問題となりうるのだろうか。
それは、ひとたび写真それ自体について語ろうとすると、それ自身の承認/写真それ自体が、それを語ることの不可能性ゆえに/だからこそ必然的にあらゆる意味を潜在化させ、つねに、そうした意味をともなわずにはおかないからだろう。
だとすると、いまいちど写真そのものについて語ること、語ることの方法を見い出し、その領域についてめぐってみること。本来は間接的であり媒介的でしかないこうした関係性に立ち入ることこそが重要に思われる。

III

[写真のポリフォニー]、それは、
写真そのものについて語ることで、写真そのものを差異化させる運動。
この距りの出自とも言うべき写真の意味を見い出だし、写真そのものと切り結ぼうとすること。そうした視点を発見するべく写真についてさらに語ること。
いっけんまったく異質の現象を、あえて重ね合わせることで、写真そのものの場を変容させ転移させてみること。
そして、それは、そうしたことの[実践]にほかならない。