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[三橋郁夫写真展「桜」/フォトコンテスト1989年12月号:121]


 三橋郁夫の「桜」を見るときの、ある種のいかがわしさは、たとえば杉本博司の海のシリーズを見るときの感じに良く似ている。桜にしても海にしても、その対象の設定はあまりにもあからさまであり、その対象への写真機の向け方は、誰にでもそうと思えるほどに写真的なもので、あらゆる物語的な言説へと結びついてしまうことに無防備を装っているさまが、作為のない作為への装いが、いかがわしいのである。
 見る者が「桜」に向かってなにを言おうとも、その言葉は装われた写真的なるものによってすでに予告されているのであり、おそらくその作者は、その退屈な予告された言葉に深刻そうにつきあってみたり、相槌をうってみたり、真剣なそぶりで否定してみたり、といった術をすべてひきうけたうえで写真を見せているのだから、写真を見てしまった以上、言葉を発しようと発しまいと見る者はそのいかがわしさの共犯者であり、そのまったく退屈だと互いに知っている写真的なるものにつきあわざるを得ないのである。
 それは、私たちが写真を見、なにかを語るという滑稽さを見せつけられているようでもあり、いささかうんざりさせられたりもするのだが、私たちは未だ「桜」から桜―すなわち写真的なるもの―を見ずに「桜」を語る術を知ってはいないのだから、それもまた仕方あるまい。桜を見ずに「桜」を語ること―それはおそらく魅力的なことに違いないのだが……。