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[意味の専制を嫌う/PHYLO PHOTOGRAPHS ANNUAL 1989 1989年2月刊:36-37]


 『地図』のシリーズを見る。左の上のコマから右の下のコマへと順を追って見る。そうした順で見るのは、35ミリのフィルムで連続して撮影されたように画面が並べられているからであり、そう思うのは私が35ミリのフィルムの形式を知っているからで、ただただ習慣から、見るためのきっかけを習慣から順を追って見ることでつかもうとしているにすぎない。左のコマから右のコマへと、左のコマから右のコマへと見る。写真機が作り出す遠近法に保障された画面から、撮影者の立つ位置を想定することで、撮影者の移動の幅の規則性を見ようとする。移動は見る者の習慣を裏切ることもなく、一定の幅で左の上のコマから右の下のコマへとなされているようだ。それは、左のコマから右のコマへの画面の変化、遠景が一定の規則で前景に移りくることで了承できる。画面の中央に用意された正方形の別の画面。写真機の上方への方向の移動などもあり、その移動の規則はゆるやかではあるが、一定の秩序に基づいているものではあるようだ。このように、撮影者の動きを画面の中に追ったあと、私は、再び全体の画面を見る。撮影者の動きを読むことや近似の画面の違いを見ていくなかで、撮影の方法には何のトリックも隠されてはいないことを知ることで、なされた試みを解かろうとする試みが無効であることを知り、再び全体の画面を見るのである。近似の画面の中に、画面の連なりから読みとれる移動の幅に、私の視覚の習慣が裏切られるような仕掛けが見付けられたなら、私はそれを読みとることでその写真を了解したことにしていたのだろう。撮影の方法自体は方法であること以外なにも意味しはしないことを見る者は知らされ、再び写真のまえにたたされる。手持ちの見る方法を迂回させられ、再び写真を見ること。
 写真機を向けたものを対象と呼ぶとき、それは無条件に対象と呼ぶべきものが在ることを前提としている。写真に写っている対象についての話を写真についての話のように語ることを止めたように見せながらも、対象について、対象に写真機を向けた契機や口実について語ることで、写真機−対象の関係は保持される。撮影者が居り対象が在り写真機を向け乳剤に対象の像を定着する、それが写真であるという前提・図式。しかし、対象は対象として在るのではなく、写真機が向けられることではじめて対象と呼ばれうるのであるならば、そのような手順を前提にしてしまうことこそ、図式を逆にたどることで疑似的な撮影者の立場に立ちメッセージを受け止めることができるという、抑圧的な見る立場を成りたたせてしまうことで、見るということを限定しているのではないか。写真機が向けられることではじめて対象と呼ばれるのであれば、写真機が向けられた対象を語ることも、対象に写真機を向けた口実について語ることも、はじまりが違っているだけの循環する問いかけであり、眼の前にある写真について語ることとは離れているのではないか。田口芳正の写真を眼の前にしたときの戸惑いは、自分が前提としてきた見る立場が暗黙のうちに図式的な了解−眼の前にある写真を経由することなしに写真を語ること−に支えられた、問いかけ自体が回答を含んでしまっているような質のものではなかったのかと問いかけられることであろう。撮影者と写真機のあいだに、写真機と対象のあいだに、写真と見る者のあいだにつくられた図式・境界を疑ってみること。そこから、再び写真を見ること。
 『地図』のシリーズ。住宅地の道を、公園の道をたどりながら一定の規則のもとにうみだされる写真。写真一枚一枚の出来の良し悪しが問題にされてはいないことは、近似の画面が並べられていることで明らかであり、方法(規則性)を分析することが写真の理解とはならないことは既に述べたとおりだ。方法のための方法であるということ。ネガに連なる画面を何らかの基準で選択していくことは、選ばれるべき写真が在るという前提においてであり、設定した方法が選ばれるべき写真をうみだすための契機として奉仕することならば、選択することがもはや問題とはならない方法を設定することで方法を方法として提示するという判断。対象を選択することが写真を選択することが、無条件に選ばれるべき対象を選ばれるべき写真を在るものとし、撮影者という見る者という特権的な立場を制作の過程のうえになりたたせるのならば、方法を方法化することで撮影者−写真機・写真機−対象・写真−見る者の図式・境界に保障された問いかけが無効となるような場所へといまいちど写真を置くこと(それはまた境界に問いかけるということでもある)。方法を方法化すること、方法化された方法を反復すること。おなじ場所で行為が繰り返されることでの、在るべき何かをうみだすためにではない、契機が契機として在り行為が行為として在り、そうした関係が関係として在るような場所の現前。反復されることではじめてたちあらわれてくる場所、方法化された撮影行為によりあらわれる場所で、もはや撮影者−見る者という特権化された主体−客体といった関係には所属しない「地図」を描くこと。そうして描かれた「地図」は、契機を行為を撮影に従属させることで常に上位に想定されてしまう撮ることの専制から写真をまえにする者のとるべき位置を強制し抑圧すること、受け止らなければならぬメッセージを主体・客体の関係のうえで想定することで写真をまえにする者を抑圧的な撮る立場・見る立場に繋ぎ止めることはしない。そこでは、契機としての契機・行為としての行為などの諸次元への写真をまえにする者の接合を可能とすることで、撮影者と呼ばれる者・見る者と呼ばれる者というような区分けがなんの重要性も持ちはしないような場所にある写真をまえにする者たちのあいだで多様性を持った契機が行為が増やされる。撮影者−見る者、主体−客体の関係によって契機に行為に写真の諸次元に貼りつけられた意味の専制から、契機が行為が引き剥がされ、複数の契機・行為が写真をまえにする者たちのあいだにうまれる場所、それが『地図』なのであろう。逆に言えば田口芳正が常に警戒しつづけ迂回しつづけるのは写真の諸次元に貼りつけられた意味の専制であり、そこからうまれる種々の特権的な立場なのであろう。作者と呼ばれることが撮影者と呼ばれることがなんの重要性も持たないような地点で田口芳正は反復する、写真に貼りつけられた意味の専制から迂回しつづけるために。
 ここで私は再び問いかけなくてはなるまい、では、どうしてこのように写真についての話をしなくてはならないのかと。対象と呼ばれるものがあらかじめ在るものとして語ることを、あるいは写真機を向けた口実を類推することを、それは写真についての話ではないのだとあえてしりぞけ、眼の前にある写真について、その印画紙という紙の表面にたちあらわれる場所に話をひきもどそうとするのかを。何故そうしなくてはならないのかを。写真を意味に従属させ、多種の意味への結び付けを写真の多様な読みとすることで実際には写真をまえにする者の位置を固定化することを強化し、撮影者という見る者という立場を強制し、多種の意味付けを写真の在り方の多様性と取り違いさせ、写真を形而上へとおいやる反動性・無限の退行にはうんざりしているからだ。皮肉な循環によって、知らぬまに個人が撮影者という見る者という絶対者になってしまうような図式に取り込まれる苦々しさはもうたくさんなのだし、あえて撮影者を見る者を演じるという口実で二重に自身を養護しより強固に位置を固定化する二重の反動性にもあきあきさせられているからだ。田口芳正の『地図』は自身が知らぬまにそうした反動性に加担することを回避しつづける場所であり、方法を方法化すること・方法化された撮影行為はそのための戦略であろう。そしてここから再び問いかけなくてはなるまい、そうした場所で反復すること、田口芳正の迂回しつづける戦略は、私たちを皮肉な循環から解き放し、撮影者と呼ばれる者・見る者と呼ばれる者というような区分けがなんの重要性も持ちはしない場所へと移行させるのに充分に有効なものであるのかを、充分な強度をもっているのかを。そしてこの問いかけは、もちろん、あえて撮影者を見る者を演じるのだという口実でなされる退行をしりぞけたところで為されなければなるまい。