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[写真の抽象、あるいは、インスタレーション/TREND'89「現代写真の動向・展」図録1989年9月:44-46]


 ともかく、私たちは、そうすることのいくつかの契機をもっている。そうすることを何処かで学んだわけでもなく、そうすることに向かって組み立ててきたからでもない。いくつかの契機がどこかで生まれるのを意識し、それを内在化させることを試みるときには、すでに私たちはそうしているのであり、それを試みないかぎり何もはじまりはしないだろう。そして、いくつかの契機は、いくつかの場所で私たちを待っている。ときには、和解しようとする意識がそれをとりにがし、ときには、むかえるべき場所を持たないままそれとすれちがう。

 それを写真にもちこむこと、あるいは、そうすること。

 何の脈絡もなく、写真から写真を作りその写真に写真を重ね写真に置きかえたいと思ったり、いくつかの大きさの写真をちがった場所に置きたいと考えたり、(かならずしもそれは外側で見てとれる動きである必要はない、というよりこれはそのような区別が何の重要性ももたないところでの話なのだから)、ともかく、写真をその表面と表面において量化したいと考えるとき、人はすでに写真の背後に一人でいることをやめた複数であり、また見る者の一部でもある。何処で?…表面で、その表面で、人は写真を見る、誰の写真を?…己の写真を?…もはや誰のものともつかない写真を。それがたまたま私の写真であるというのならそれもまた良かろう、重要なのはそのような判別が何ら意味をもちはしないような場所に諸契機をもちこむこと、そこでこそ写真を見ること。
 写真機のむこうを見るためにではなく、写真の背後を見るためにでもなく、写真の背後に身を隠すためにでもなく、また、その手前で解釈をするために写真を作るわけでもない。いくつかの契機をもちこむべき平面を、測定し、分割し、反転し、別の滑らかな平面におきかえ、そこでふたたび見るために、その滑らかな平面を、内在化させ、そこでふたたび見るために、私たちは作る。あるいは、それを試みる。解釈を試みにおきかえること、そして、それを試みないかぎり、どう控え目に見積もったところで解釈から概念を学ぶことなどありはしないだろう。それを実践すべき場所、そのための適切な場所の注意深い設定を急ぐこと。
 写真の背後を見るのではなく(あるいは、そういった意味ではほとんど見ずに)、表面を見ること、表面で見ること、表面的に見ること、(それはとりもなおさず、それと意識せぬまま複数で見ることでもある)、それがここでの課題、猶予があたえられないままの性急な課題である。系譜学のうちの概念とここをつなぎ将来のある地点を想定するのではなく、いつかそうすることを可能にするために準備するのでもなく、ここを計量し測定し、手持ちの札でできるやり方を考えること。性急な課題に対し、ここで見つけることのできるやり方での回答を用意すること、実践的な回答を試みること。直線的な迂回路を探すこと。裡にひそむ記憶を欠落させること、写真的イメージを欠落させ、滑らかな平面、写真のその表面と表面においてイメージを組み立てること。抽象的な写真ではなく、写真の抽象を。そして、ここを実験室に組み替えるための諸契機を組織すること。そこでこそ、思考すること。


 むろんそこでは、無残な失敗、悲惨な結果も充分ありうるし、げんにある。そんなとき、ある誘惑にかられることもあろう。私たちは間違ったやり方をしていたのではないだろうか、私たちははじまりを疎かにしてはいなかっただろうか、私たちはいったい何処に位置しているのだろうか、と己に問いかけることの誘惑に。では、いったい何処へ戻れというのだろうか、何処にはじまりを置けというのだろうか?…写真に…写真自体に?

 では、写真自体とは?…銀粒子の歴史、あるいはカメラ・オブスキュラ?

 しかし、いったい銀粒子の何処にはじまりを見いだせというのだろう。銀粒子を計測する、それは不可能な話であるし(銀粒子それ自体が、また何かによって構成されているわけではないと主張するなら話は別だが)、また、それを写真の最小単位として見なすことなどなおさらである(じっさい、銀粒子と口にする者のうち、どれほどがそれを見きわめたというのか)。カメラ・オブスキュラ、暗い部屋。だが、小さな穴を中心にして、外界と暗い部屋を線でつないだモデルにはじまりをおくならば、それはたんなる模写のはじまり、外界の投射・描写のはじまりでしかないだろう。しかし、このモデルの線は、たんなる線ではない。銀粒子とその線が結びつけられるときが、隠喩としての写真のはじまり、動かしがたい銀粒子の歴史・系譜学のはじまりでもある。みんながこのことを知っている、だれも否定できない、だれも逃れられない。専制的なモデルのはじまり、あるいは、専制的な系譜学の線のはじまり。すべてはここからはじまり、ここに回収される。暗い部屋・小さな穴・光の戯れ・銀粒子といった契機は、ここですでにたんなる隠喩としてないがしろにされ、一つの線の上に位置させられ、写真機という機構の部分としての役割をになうにすぎないものに貶められている。そしてもうひとつ、このことこそが、あちら側とこちら側の境界線のはじまり、滑稽なあがきを延々と写真につづけさせてきたモデルのはじまりでもある。己への問いかけの要請、あらゆる設問を写真の表面にではなく、己にそして系譜学に送りかえし、己の位置をたえまなく模写させる忌わしきモデルのはじまり。ここでは、人が契機と出会うことも、ましてや契機を生みだすことなどありはしない。すべての契機は、己が何かをはじめるための口実にすりかえられる。すべてがあちら側とこちら側に分割され、どちらかに回収されるべきものとして作られるにすぎない。あるのは己と対象だけ、表面で見ることを、まったく不可能にする分割線。人は、系譜学と己の位置の模写を照らし合わせ、現位置を修正することを、反省と回帰を絶え間なく強制されるにすぎない。


 問いを反転させてみよう。そもそも、写真自体のはじまりを見いだすことが不可能な位置から、写真ははじまっていたのではないのだろうか?…根源を問いかける、あるいは、己に問いかけることの不可能性から、写真ははじまっていたのでは?と。

 複製メディア、引用。これさえも、系譜学の上で思考するかぎりにおいては、まったく無意味な概念だ。複製に対しての本物、その引用という系譜学の線をもう一つ殖やすにすぎない。しかし、複製メディアとはそのような系譜学の線、あるいは本物と引用という境界線をこそ、あいまいにし、おびやかすものではなかったのだろうか。そここそが、はじまりを欠いたはじまり、根源の消滅のはじまり、あるいは背後を欠いた表面のはじまりだったのでは。

 そうであるなら、表面を思考すること、表面で思考すること、表面的に思考すること、これは、少しも間違ったやり方ではないはずだ。というより、現位置の測定・根源への問いかけこそが、唯一の間違ったやり方だ。表面には深さがない、距離がない、背後がない。根源や位置といった設問は、表面に属していない。測定不可能な起源を測定するために、諸契機を隠喩にでっちあげ、それを口実という部分に仕立てあげ、無理やり線をひいたりする、これこそが間違ったやり方であり、これのみが間違ったやり方だ。表面には対象(オブジェクト)もなければ主題(サブジェクト)もない。表面はどこにも所属しない。必要とされているのは、むしろ、根源を求めてやまない郷愁こそを切断すること、回帰にかえて忘却を組織することである。私たちは、このように言うことで、何か幻想をいだいたり、問題を回避したり、来るべき理想を想定しているわけではない。私たちにしても、ここから、ここにあるすべてのことから出発しているにすぎない(むろん、それは己でもなければ、始源でもないことは言うまでもないが)。私たちは、ある一定のやり方で組織され、ある一定のやり方で機能しているここにあるすべてのことから出発することから、いささかも目をそらそうとはしていない。ただ、同じ場所から同じやり方で思考することには、自問を繰り返すことには、あきあきしているだけであり、すべてを否定法の内に封じこめて、私たちを陰鬱にするばかりの内省的な思考にはうんざりしているだけなのだ。もはや、そこから何かでてくるものなどありはしないのだから。
 こういった言い方が、また隠喩と呼ばれてしまうのであれば、また別のやり方、別の流儀を考えよう。だがそれは、根源を求めるようなやり方ででは決してない。考えるべきことは、表面を、滑らかな平面を、いかに抽象でみたすか、いかに内部ではなく、内在の平面で思考するかということ。もしここに問題があるとすれば、これが抽象的だということではなく、充分に抽象的ではないということ、いまだ抽象として機能していないということだ。抽象的とはいまだ比喩像でもあるが、抽象とは何ものにも向かわない欠如のない平面、実践の総体、内省なき思考のための固有の呼び方である。

 意識を欠如をうめるために使用するのではなく、契機のために、また必要ならば契機を生みだすために、探求の手段として使用すること。写真をたんなる表面としてではなく、その背後をも表面として組織し、量化すること。表面を表面化させること。滑らかな平面から深さを欠落させ、距離を欠落させること。引用符なき引用を(この文章にしても、そのように書かれている)。あちら側でもこちら側でもない内在の平面に概念を慎重に配置すること、慎重に、しかし性急に。これは、確率論的な支配に従属することではないし、ブリコラージュ(器用仕事)ですらない、一つ一つの配置がすでに実践であり、その結果は何ものにも回帰しないであろう。人は、そこでは回答を傍観する自我ではなく、特定の一人ではない、すでに起源をうしなった複数であり、孤立する複数であり、滑らかな平面に内在の固有の塊を生みだす非平行的な振動である。私たちは、そこでこそ写真を作り、見、思考する。その一つ一つの振動こそが、そうすることのはじまりであり、そのときすでに諸契機は内在の平面に組み込まれ、私たちは、すでにそうしている。


 インスタレ−ション。…“現実空間を作品の表現対象とすること”…“空間自体の異化”…“脱様式の様式”…?…
 …しかし、それはそもそも、そうすること以外のいったい何でありうると言うのだろうか。