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[写真の規則8:写真的なるものについて/FILM ROUND GAZETTE 1989年11月号:5]


(前号よりつづく)

 むろん、このような視覚と写真機の組み合わせの、様々な言説の変奏それ自体を考えていくことがここでの課題ではない。あるいは視覚と写真機の重なり合いを指摘し、そのことを写真を語る誰もが不可視の前提としていることを並べたてることも、ここでの課題ではない。くりかえすように、ここで問題にしようとしているのは、そのような変奏を可能にしている、あるいはその変奏の不可視の前提と指摘したときにその背後にあるような、私たちが躊躇なく写真について語ることを可能にしている、写真的なるもの、あるいは写真的イメージについてである。もちろん、こうしてそれについてどのように指摘しようと、(こうしてそれについて書く私にしても、またその例外とはなり得ないように)それはさらにその背後へとズレていくような類いのものであり、それが何であるのかけっして明示することはできないような類いのものである。写真的イメージとは、例えば私がここで「不可視の前提」と言うことを可能にしているような前提であり、それは、視覚と写真機についての重なり合いをどのように指摘しようと、私たちがその重なり合いを存在しないように考えることができないように、けっしてそれが何であるのか明示できないにもかかわらず、私たちの写真についての言説を背後から保障しているような類いのものなのである。
 そのようなものとしての写真的イメージに対し、写真にまつわる言説が無意識的なかかわりをもつとき、写真的イメージは無根拠に増幅することを余儀なくされているのではないだろうか。写真的なるものへの無防備な信頼、それは、写真にまつわる言葉が、実体的な概念として用いられ、あらゆる差異を一義的なものへ(程度の差異へ)と解消していくものとして機能することに他ならないのではないだろうか。
 例えば、「ニュートラル」という言葉を例に考えてみよう。
 「トポグラフィックス」とは、「地誌、地勢学」といった意味である。展覧会のサブタイトルである「人間によって変えられた風景の写真」(Photographs of a Man-Altered Landscape)が示すように、自然破壊によって変質していくアメリカの風景を、あたかも地誌学の調査のための測量のように、感情移入を排したニュートラル(中立的)な視線で撮影していくのが、これらの写真家たちの基本的スタイルである。
 (中略)いずれにせよ、それがニュートラルな描写であればあるほど、風景に刻みつけられた人間による破壊の爪跡が、なまなましく浮かびあがってくるのである。
(別冊宝島『現代写真・入門』より)
 新しい風景写真のあり方を示している写真家たちは、かつての写真家たちのように都市を賛美したり、自然の美しさや神秘をうたいあげるようなことはしない。彼らは、そのような光景に対して何の感情ももつことはないようにみえる。しかし彼らは決して無感動にシャッターを押しているわけではない。声高にそしてロマンティックに失われつつあるものの大事さを訴えることや人間の力を賛美することが、いかに自己中心的であるかを知っているだけだ。(中略)つまり彼らのニュートラルなまなざしは、何が守るべき大事なもので何が否定すべきものでといった区別をつきぬけて、自分たちの回りを取り囲む環境の連続性を見つめている。彼らの写真は、写真という四角いフレームの内に描かれた世界としての「風景」ではなく、フレームの外に広がる地球−環境へとつねに開かれているのである。
 (つくば写真美術館カタログ『パリ・ニューヨーク・東京』より)
 これらはアメリカの70年代後半の大きな写真の傾向として語られることの多い「ニュー・トポグラフィックス」についての文章の一部である。「ニュートラルな視線」「ニュートラルなまなざし」という言葉が示すとおり、ここでは撮影者の視覚と写真機は構造的に同一化されている。そして、その「ニュートラルな視線」「ニュートラルなまなざし」の優位性を保障しているのはそれに続く、「ニュートラルな描写であればあるほど、風景に刻みつけられた人間による破壊の爪跡が、なまなましく浮かびあがってくるのである」「フレームの外に広がる地球−環境へとつねに開かれているのである」といった一節である。ここで示されているのは、その「ニュートラルな描写」の現実世界への対応であり、その現実世界への対応が写真家において「感情移入を排した」「環境の連続性を見つめている」ことにより、見る者にとってより「なまなまし」かったり、「フレームの外に広がる地球−環境へとつねに開かれてい」たりするということである。
 これらのことから浮かびあがってくるのは、撮影者(写真家)・写真・見る者の構造的な同一化であり、ここでは写真はいわば写真家と見る者を媒介する、現実世界とのある対応関係として扱われているということであろう。すなわちここにおいての「ニュートラル」とは、写真家と見る者との了解の程度において用いられていると考えてさしつかえないだろう。「ニュートラル」という言葉は、ここでは二つの(同種の)程度の差異によってある概念として用いられている。「ニュートラルな描写であればあるほど」という言葉が示すような、「ニュートラル」という概念内での差異、そして「新しい風景写真のあり方」という言葉が示すような「ニュートラル」ではないとみなされる写真との差別化によって。「ニュートラル」とは何かという設問を受けるのはこのような差異であり、私たちは経験的にそれが何であるのかを知ることはできても、「ニュートラル」がいかなる機能を写真においてもっているのかはけっして知ることができない。なぜならここで「ニュートラル」を裏づける客観性は共同体的なものであり、語ることのできない(経験的にしか知ることのできない)「何か」なのであるから。それは「ニュートラル」という概念によって構築される体系に属する者にのみ自明のものなのであり、属さない者にはけっして説明不可能なものなのである(いいかえれば、属さない者には説明不可能なことは自明であり、属する者にはその自明性は説明不可能なものである。)
 そのような自明性に写真にまつわる言葉が無根拠な信頼をおくとき、引用文で「ニュートラル」が素朴に現実世界に対応していくように、写真的なるものはただ共同体的な客観性の構造を補強するものとして機能するにすぎないのではないだろうか。いいかえれば、ある言葉が実体的な概念として機能するのは、共同体的な客観性(一般性においての写真的なるものの体系化)を前提とすることによってのみ可能となっているのではないだろうか。だとすれば、私たちがここで問いかけなければならないのは、あらゆる差異を程度の問題として解消し、写真的なるものを素朴にあらゆる現象に結びつけていくような体系であり、現象や現実世界を単純に写真の外に設定していくような立場なのではないだろうか。