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[写真の規則6:超越的な根拠をめぐって/FILM ROUND GAZETTE 1989年8月号:3]


 なぜこの写真が、規則によって選別・排除されたのか、私たちは事後的には明確に示すことができる。なぜなら、そのような営み自体が、自らを規則の「内に」位置づけ、「外から」規則を構築するものであるからだ。「外から」構築された規則は、当然のことながら規則の「内」をこぼれることなく読みこみうることを前提に構築されているのだから、その規則が「明晰で」「整合性がある」ことは自明のことである。そのことが明らかであればあるほど、それは私たちを、規則の根拠への疑問へと導く。
「なぜこの一枚の絵が価値あるものとされ、他の一枚がそうではないのか、という問い。私にはその解答がわかっていた。その解答が数学の解答と同じほど明解なものであり、どうすれば良い絵が描けるかがわかっていたからこそ『なぜよいのか』という疑問が私をとらえたのである。一枚の絵を評価する尺度が見えてくればくるほど、その尺度に対する疑問は逆にふくらみ、なぜよいのかを不問に付すことが出来なくなったのである、それは私の中に解答不能な問いかけとなって沈殿していった。」(『絵画論』・宇佐美圭司)
 「なぜよいのか」という疑問。それは、構築された規則の根拠への問いかけであることはいうまでもない。そしてその根拠への疑問は規則に基づき、規則の「内で」思考する限り、「解答不能」な問いかけである。また、同じ位相に立って、規則の「外から」根拠に問いかける限りにおいて、私たちはその根拠を規則化し、また「新たな」根拠を生みだすにすぎないだろう。だから、問いかけはある規則における根拠に向けてではなく、その根拠が常に超越的であるという性格に向けてなされなければならない。規則がいつも「明晰で」「整合性がある」ことを知ることは、その根拠の超越的な性格をときあかすことへの何のたすけにもならない。同じ位相でそれをときあかしたところで、根拠の超越的な性格は何もあきらかにはされないからだ。しかし、そのことによってのみ私たちは、根拠の超越的な性格に直面するのである。このことは、私たちに態度変更を余儀無くさせる。
 写真をたんに見る、そしてたんに語る。規則はその言葉を事後的に自身で聞き・読んで解釈してしまうことにより生じる。このときあらゆる差異は、規則の「内」の一義的なものとして還元されてしまう。差異は解釈され、超越的な根拠による体系としての規則の中で一般化される。そのような意味での差異は、根拠の超越的な性格によってすでに予告されたものにすぎない。ここで求められるのは無論、解釈の変更ではなく、そのような超越的な根拠に基づく解釈自体に向けた態度変更である。
 この態度変更はいっけん容易にみえる。超越的な根拠がたんに見、そしてたんに語ったことを、事後的に自身で聞き・読んでしまうことに由来するのなら、聞き・読んでしまうことをカッコに入れればよいというわけだ。だがそのことはまさに、聞き・読んでしまうということを自覚することによってのみ可能なのである。それはしばしば聞き・読んでしまうことに無自覚を装うことと混同されている。だが、「あえて」装われた無自覚は、実は意識によって自覚しうる根拠の超越的な性格を、もういちど暗黙の内に置く営みにすぎない。根拠の超越的な性格は、それを語ることでしか自覚しえないにもかかわらず、それを語らないところでは直面しえない問題である。
 写真が、現代という言葉をかかえてから、表現という側面で直面せざるをえなかった問題のひとつはこのことであろう。
「たしかに、美術作品の価値を問うとき、美は避けがたくあらわれる。しかし、『現代美術』の価値を問うとき、作る側においてもまた見る側にあっても、美を持ちだすわけにはいかぬだろう。とすれば、『現代美術』は美術作品ではないのか? そのとおりだと思う。私は美術作品一般とは別な範疇をたてることでしか『現代美術』の価値は問いえないのではないかと思う。(中略)新たな価値基準、あるいは価値の組み替えを求めて、表現が試行をくりかえし過渡期を渡ろうとするとき、すでに意味されたものとしての美が価値基準とはなりえない。美を概念の成立以前の姿にもどしてやらねばならぬ。」(同前)
 いうまでもなく価値基準としての「美」とは、事後的に措定された規則による選別と排除の体系である。その超越的な根拠に向けて問いかけるには、「別な範疇」をたてるほかはない。無論、「別な範疇」も体系として規則化されたときにはまた超越的なものとして機能する。しかし、超越的な根拠による規則としての「美」に問いかけるには、また「超越的」であるほかはない。
 このことを終りのない自己言及的な営みとして退けることは簡単である。しかし私たちはこれを、超越的な根拠に向けて問いかけうる超越的な立場(体系)としてではなく、いわば超越的な意識としてとらえなくてはならない。その意味で「美を概念の成立以前の姿にもどす」ことは、「概念の成立以前の姿」を措定して超越的な根拠としての「概念」を解体することではありえない。それはいかなる作品もこぼれることなく選別・排除し読みこんでいく超越的な根拠に基づく規則、すなわち一般化された「概念」が、無効とされてしまうような問いかけの要請にほかならない。これはいわば超越的な意識としての概念においてのみ、なされうることである。それゆえ、また「作る側においてもまた見る側にあっても」直面せざるをえない問題である。
 このことは、同時に、「概念」によって根拠づけられていた「美術作品一般」に向けた問いかけでもあるはずである。それは、たんなる別の「概念」による規則に基づく「読み直し」や「再評価」といったものではありえないはずだ。
 逆説的なことだが、写真にまつわる言葉が所在不明の薄められた言葉として機能してしまうのは、それが実体的に「概念」の内に回収されてしまうからである。object対象)としての対象が、印画上のsubject(主題・対象)として語られるとき、たとえば〈対象の相似形としての写真〉は、言葉による分節化の内に回収され、「概念」によって実体的な位置付けをされる。だが、「概念」の内に位置付けられたとき、印画上に放置されたobjectとしての差異は、subjectとして解消されてしまう。写真のこのobjectは印画上のsubjectに眼を向けることでしか語りえないにもかかわらず、それを実体的に語ってしまうと、subjectの内に回収されてしまうのである。とすれば、それは、いわば超越的な意識としての概念において語るほかはない。
 しかし、このことに自覚的であるのか、無自覚を装っているのかという違いは、実体的な「概念」で語れない以上、実際には微妙である。どちらも、実体的な「概念」をカッコにいれたうえでの営みである以上、それらは超越的な意識のうえで区別されるほかはないからである。おそらくこのことは、潜在的に無限に外部から反転する内部という構造において、超越的な根拠がその営みの有限性において有効であるということを、どのようにとらえるのか、いいかえれば、その無限を実体的な「概念」によって形式的にとらえるのか、それ以上外部がありえないような無限として、超越的な意識のうえでとらえるのかにかかわっている。この超越的な意識としての概念によってとらえうる無限とは、同時に営みの有限性を「自覚する」ことによってのみ可能となることはいうまでもない。