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[写真の規則5:超越的なものとしての根拠について/FILM ROUND GAZETTE 1989年7月号:4]


(承前)

 超越的な根拠としての中心を体系内に常に温存するような立場、それこそが事態を事後的に「外から」俯瞰し、秩序立て、規則化し、そうして事後的に構築された規則の「内に」写真をこぼれることなく選別・排除し、読みこんでいくことを可能にしている。なぜこぼれることなく、写真を読みこんでいくことが可能なのか。規則はいつも事後的にみいだされそして構築されるからである。注意しておかなければならないのは、事後的にみいだされるものとしての規則は、決して固定的なものではなく、それは事後的に固定的に見ることができるにすぎないものであるということで、それを固定的であるというとしたら常に解釈の専制(優位)を前提とした体系による構造それ自体という位相においてである。事後的に措定される規則に向けて思考している限りにおいては、そう思考すること自体が超越的な根拠を保持することであり、常に保持される超越的な根拠に対するある「遅れ」の内で思考するということで、その体系内から一歩も抜けだすことはできない(この、ある「遅れ」とはここまで述べてきた、たんに語るその言葉を自身が聞き・読むことで、一定の規則が生じるということに由来している)。体系内の規則は、事後的には固定的でありそれを明確にとらえることができるにもかかわらず、現象面においては常に流動的であり、予測しえないものであり、ただ体系による構造それ自体を保持するということを除けば、多様なものであるからだ。そう考えると、ここまで、ただ断定されると述べてきた暗黙の根拠については、それが誰かがただ断定しているという位相においてではなく、体系による構造それ自体を保持するという営み自体が超越的な(それゆえに暗黙の)根拠を必要とするという位相において理解されなければならず、そうした意味では、超越的な根拠はただ断定されるというよりも、ただ保持されるのである。それゆえ、超越的な根拠はいつも語られざるものとしてあり、なおかつそれが事後的に明確に語られたあとには、それは体系内の規則として機能し得るものであり、そのときには同時にその根拠となる「新たな」語られざる超越的な中心を保持するものである。よって、その語られざる超越的な根拠についていくら語ろうとも、語り得たときにはそれは明確な規則にすぎないのであるから、それは超越的な位相における暗黙の根拠を生みだし続けることにしかならない。またあるいは、そのような体系は、無限に事後的に保持される超越的な根拠と相互補完的な関係にあるとも言えよう。同じように、ここまで「外から」事態を俯瞰することを可能としていると述べてきた超越的な根拠・暗黙の了承についても、それは体系の「内を」明晰に語り得ることとの相互補完的な関係にあると言える。それは内部を前提にした外部、外部を前提にした内部であり、外部が内部に反転するような位相においては、そのことがまた外部の反転としての内部を補完する外部を前提とする体系なのである。明確な(語り得る)規則は語られざる規則(すなわち暗黙の超越的根拠)を常に前提としている。すなわち超越的な中心としての根拠を固定的なものとして理解している限りにおいては、あるいは同じ位相で位置を変えていくがゆえに明確にとらえ得ないものとして理解している限りにおいては、超越的な根拠をたんに保持する体系の構造に閉じこめられることを余儀なくされる。暗黙の規則の超越的中心としての根拠は、まさしく超越的であるがゆえに根拠であり得るのである。このような認識を欠いて思考する限り、私たちは内部を前提とした外部、外部を前提とした内部をたんに往き来し、超越的な根拠と相互補完的な関係にある事後的な規則による体系を追認し続けるにすぎない。
 写真にまつわる所在不明の言葉について考えるときも、その所在をつきとめることは、超越的な根拠を明確な規則として位置づけることにほかならず、それは新たな語られざる規則−暗黙の超越的な根拠を前提にした思考にすぎない。超越的な中心として機能している写真にまつわる言葉の所在について、それを明確に位置づけていくために問い掛けていくこと自体が、新たな超越的な根拠を前提にした営みである以上、そのように問い掛けることを私たちは迂回し続けなければなるまい。内部を前提とした超越的な根拠(外部)において思考するのではなく、外部を前提とした内部(事後的に語り得る規則)において思考するのでもなく、そのような構造にたんに依存しながらもそれが常に超越的な位相において保障されていることに無自覚なまま、それがなにか「新しく」「明晰な」ものであるように語られる写真にまつわる言説に対して、私たちはそれがどのような位相で、いかに無自覚に所在不明なまま、あたかも何かを明らかにしているような用いられ方をしているのか、というところに向けて思考しなければなるまい。そして所在不明の言葉の所在に向けて問い掛けるとするならば、ある言葉が薄められ、まさしく所在不明のものとして用いられることにより、私たちがいかなる事態のもとにおかれているのかについて問い掛けなくてはならないだろう。それは、潜在的に無限に外部から反転する内部という構造のもとで形作られるある体系において、所在不明の言葉はまさしくその営みの有限性において超越的な根拠として有効であるということに眼を向けていくことにほかならない。
 そうしてみると、ある種の写真の歴史は超越的な根拠における所在不明の言葉による意匠の更新である、と言うよりも、超越的な根拠が無限に更新されることを不可視に含みこむことによってある種の写真の歴史の構築が可能になっている、と言うべきだろう。「新しい」超越的な根拠の提示は、提示されることそれ自体によって、同時に「古い」超越的な根拠を乗り越え「さらに新しい」超越的な根拠に乗り越えられることが前提とされている。その意味においての「新しさ」とは、すでに前提とされ暗黙のうちに措定されている「新しさ」であって、なんら概念としての強度をそなえてはいないはずである。それは無自覚のうちに、以前にくらべてより知っているということを随時提示していく、いわば自動的に更新される知ることの積重ねとしての、すでに予告されている写真の歴史を事後的に追認していく営みにすぎない。有限な提示それ自体が、いわば自動的に無限の乗り越えを含みこむことが、無自覚のうちにあたかもそれが自覚的な「新しい」概念の提示のように示されるときに、意匠の更新としての写真の歴史が保障されているのである。この逆説的な両義性を「自覚」しない限り、私たちもまた所在不明の言葉を配置する、より知っている者にとどまらざるを得ない。
 だから問題は、写真にまつわる言葉が薄められ所在不明のものとして用いられることによって、それが予告された意匠の更新としての写真の歴史の構造の反省以前的な承認に、いかに機能しているのか、というところに向けられなければならないだろう。その意味では、写真家という存在もそのような問い掛けに無縁の存在ではあり得ないはずである。すでにここまでに、撮影者もたんに撮りそしてたんに語り、聞き・読み、事後的に一定の規則にしたがう存在であることから、撮影者もまた見る者であるという位相において、写真家がこの過程においてはなんら特権的な存在ではあり得ないこと、また、ある事後的に一定の規則にしたがうことによる撮ることの解釈の専制と見ることの解釈の専制の密約とでもいうべきことが存在することは指摘した(これはある意味では、なお撮影者の優位とでもいうべきものを保障しているとも言えよう)。そのような直接的な言葉への関与に関しても、また今回述べてきた超越的な根拠を前提とした体系のなかの言葉に関しても、写真家という存在は写真を語る営みに対していささかも特権的な例外たり得る者ではないはずである。表現という地平においての差異はもちろんここでは留保しておくが、それは写真家の優位をいささかも条件付けるものではないことを、まずここで確認しておきたい。