texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[写真の規則4:解釈の専制―超越的な中心としての根拠について/FILM ROUND GAZETTE 1989年6月号:4]


 写真をたんに見る、そしてたんに語る、その言葉がすぐさま自身に語られ聞き・読んでしまうとき、言葉による写真の分節化すなわちある一定の規則に基づく解釈が生じる。なぜそのような分節化が行われたのか、いかなる前提でそのような解釈が生じたのか、私たちはいつも結果的・事後的にしか説明できない。ある根拠をもって写真を言葉により分節化し判断・解釈するのではなく、自身の読み・語ったことを写真を分節化した言葉として聞き・読んだときにある一定の規則そしてその根拠をうみだすのである。あるいはこう言ってもよい。ある一定の規則・根拠が事後的にしか措定されないことを事実上無視すること、あるいはその規則・根拠が最終的には暗黙の内に置かれることを認めることによってのみ、事態を「外から」俯瞰したかたちでの、「明晰で」「整合性のある」論理の構築が可能になる、と。そしてその論理構築が「明晰で」「整合性がある」ほど、私たちはその判断の根拠となっている点が暗黙の内に置かれていることを認めざるを得ない。いかなる慎重で懐疑的に見える論理もそのような前提のもとで構築される限りにおいては、根拠となっている点については「懐疑的である」ことができない。
 おそらく写真にまつわる言葉の多くは、このような体系に結果的に依存しているがゆえに、その根拠を積極的にせよ消極的にせよただ断定することを余儀なくされている。ただ断定される暗黙の了承そして暗黙の規則があらわれてくる語り方は様々であり、そしてその語り方の種々の類型は、写真の読み方の多様性、さらには写真の多様性といった言葉のもとに結び付けられたりもするのだが、くりかえして言うように、そのように言い得る立場は、自身が写真を語ったことを語られたときに生じる判断・解釈による「理解」の多様な在り方をそのまま写真へと結び付けることによって可能となっていることに気をつけなくてはなるまい。写真を見ることそれ自体を、写真を読み・解釈する営みとして錯誤しとらえるときに、そのような立場を保持しそれを前提とする論理の体系の構築が可能となるのである。見ることそれ自体を読み・解釈する営みとしてとらえるとき、見る者は、見る客体としての写真を常に読み・解釈することによって存在させる、つまり読み・解釈する主体としての見ることの「内に」写真を見る対象として存在させ一義的な読み・解釈のもとに回収することを可能とする、写真をいかようにも読み・いかようにも解釈する主体として措定される。そのような意味での見る主体は、見ることの多様性・可能性を見せかけながらも、見ること自体に読み・解釈することを含みこんでしまうために、見る主体としての自身を中心として構築される体系から「外に」出ることができない(常に写真を見る対象・客体として見ることの「内に」回収していく)存在である。構築された体系内で明晰性」「整合性」を明らかにすることは可能であっても、見る主体自体を問われるような位相においては、その根拠を答えることができない。見ることをすなわち読み・解釈することととらえるような位相においては、見ることとは閉じられた解釈の専制であり、見る者はその「内で」いかようにも写真を解釈し得る者である。
 見ることそれ自体に読み・解釈することを含みこんでしまうような認識は、写真の場合ことのほか弊害が大きいのかもしれない。撮影者という存在を解釈の専制者としての見る者と重ね合せることによって、写真における過程を、撮る(読み・解釈する)主体としての撮影者、写真機を向けることによって撮影者の読み・解釈のもとに客体としての対象を撮影行為の「内に」回収していく営みとして、同じ図式で理解することが<対象の相似形としての写真>という写真の機能を媒介として反省以前的に可能となるからである。乳剤に定着された写真を、撮影行為の意図(読み・解釈)のもとに回収された客体としての対象としてみなすことによって、撮影者と見る者を重ね合わす−撮ることの専制と見ることの専制の密約が成立する。そこには撮影者に集約された写真と見る者に集約された写真を見ることの読み・解釈の一致か不一致しか存在せず、写真は単なる媒介物となるのである。そこからいかに写真を語ろうとも、語られる写真は撮ることの専制・見ることの専制の「内に」しかないのであるから、実際には写真から離れた解釈の専制の暗黙の内で単なる解釈の類型をうみだしているにすぎない。
 写真をたんに見そして語る、その言葉を自身が聞き・読み、事後的に一定の規則に回収するように、撮影者もまたたんに撮り(乳剤に定着されているだろう像をたんに見て)そして語り、聞き・読み、事後的に一定の規則に回収する存在である。その過程を、撮影行為それ自体を語り読む営みとして錯誤してとらえる限りにおいては、いかなる行為も自己同一性の内に閉じこめられる。説明不可能の根拠によって、過程は分断され体系化され暗黙の規則を形成するための単なる要因となる。だが、はたして、撮影者が事後的に聞き・読んでしまう像と写真機が生産する<対象の相似形としての写真>は、このように同一のものとして関連づけられあらかじめ規則化され得るものなのであろうか。たんに見ること・たんに撮ることは、事後的な規則化にすべて体系づけられ得ることなのであろうか。暗黙の規則の体系のなかで用いられる様々な写真にまつわる言葉の、いっけんした歯切れのよさとは裏腹の不透明さは、規則化のなかで体系づけられ得ないことを全て回収してしまうような暗黙の超越的な根拠を思わせる。暗黙の超越的な根拠それ自体の代理物として用いられる言葉は、体系の中で流動的であり、暗黙の規則からこぼれでる要因をからめとる中心(超越的な根拠)として機能し、それゆえにいつも所在不明の薄められた言葉として用いられる。逆に言えば、所在不明の薄められた言葉として用いることではじめて、その言葉は超越的な中心として機能し得るのである。そのような言葉はその所在を明らかにし得ないものであるからこそ体系内で有効なのであり、その所在自体が問い掛けられる事態となったときには、また別の所在不明の言葉を配置し、そのあからさまな言葉で示されるしかし常に暗黙の内にある根拠をはぐらかし続ける。その意味では、超越的な中心として機能する言葉は、はぐらかしの役割をまっとうする薄められた言葉であればどんな言葉でもよいのだとも言える。そして、そのような言葉は充分なはぐらかしとして機能しなくなるやいなや更新される(ある種の写真の歴史はこのような意匠の更新であるとも言えよう)。それゆえ、それらはいつも従来とは違った、所在不明の「新しい」ものである。「ピクトリアリズム」「リアリズム」「コンポラ」「ニュー・ドキュメンツ」「ニュー・カラー」「コンストラクテッド」「アティチュード」「ニュー・ウェイヴ」…これらの言葉が写真に対して用いられたときに何らかの概念たり得たことがあるだろうか。おそらくこれらの言葉はその時々の写真の形態(スタイル)を総称することによって、そこに共通する「何か」を指し示すための言葉として用いられているのだが、その「何か」こそが暗黙の規則によって構築される体系の超越的な中心にほかならないのではないだろうか。それゆえ、形態の分類項にあてはめ得ない形態の写真があらわれた時には、分類項自体をずらしていくことが要求され、薄められた言葉が移り変わってゆくのであろうが、そのような認識体系の暗黙の根拠としての超越的な中心そのものは常に温存されているということに注意しなければなるまい。そのような位相で語られる「写真の独自性」にしても、あらかじめそれがどこかに在るものとして語られることで超越的な中心の支えとしてひきあいにだされるものにすぎなかったとしたら、「写真の独自性」もまた薄められた言葉として「写真の独自性」ということがらを稀薄にし続けてきたのではないだろうか。

(つづく)