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[写真の規則3:語り語られることの諸相について/FILM ROUND GAZETTE 1989年5月号:4]


 写真を語り/語らされること、読み/読まされることが写真と見る者とを取り結び、写真を「見ること」を可能にしている。そうであるならば、みずからを見る者としてある特定の主体に措定することが不可能であるばかりか、見る者は語り/語らされること自体により見ることが可能となるネガティヴな存在であり、写真にまつわるいかなる言葉もこの点にふり返って検討されるべきである。
 しかし、そう言い得る者の置かれる立場もまた同じ事態にあることを忘れてはなるまい。そう言葉を連ねること自体が写真にまつわる言葉とのある関係を取り結ぶのであるということを。そうした解釈・理解を言葉に対してさしむけることで、読むこともそしてそれについて語ることもはじめて可能になっている。そのような言葉はその懐疑的な態度にもかかわらず、ある一義的な解釈を写真にまつわる言葉にさしむけることで、そう語り得る特定の主体を想定させてしまうことにより、同様の批判にさらされることが避けられない。単純に「外から」語ってしまうこと、ある事態を現象の総体として解釈することが、逆説的に語る者を「内に」(同じ図式に)閉じこめるのである。「外から」事態を俯瞰すること、そのことは写真と見る者を単純に対立する項とするように、書かれたものと書く者とを単純に区別し得るものとして結果的に想定する営みである。あるいはそのことが、外から」事態を俯瞰することを可能としている。
 写真を見ることは写真を語ることであり、それはとりもなおさず写真を語り/語らされること、読み/読まされること、それが写真を存在たらしめるといった認識は、それがある意味で明確な水準で語られるほど「外から」眺める立場を余儀なくされ、同時に同じ位「内に」閉じこめられるものにとどまらざるを得ない。そのような認識に欠落していることは、語ること(書くこと)がある意図を表わす営みであるのではなく、それは語ることは語り/語られること、語る者は語る言葉を語られる(聞く・読む)のであるという認識であろう。言葉を書きつつ、聞き・読んでしまうことを実質的に無視してしまっているとき、あるいは聞き・読みつつ一義的な解釈に回収されていく自身の言葉を、語っていることと楽観的に錯誤するとき、「外から」事態を分析することがはじめて可能となるのである。そのような立場は、判断・解釈(分節化)の根拠を問い掛けると同時に、同様の問い掛けを問い掛けられることを余儀なくされる。そしてそのような立場は、そのような問い掛けに、同種の分節化をもってしか答えることができない。あるいは、そのような立場を保持しつつ答えることによって、同種の分節化によって「内に」閉じこめられる。
 とすれば、語ることが語られることであることに充分意識的であることが必要とされるはずである。単純に「外から」事態を眺め得る立場に立つのではなく、それが語りつつ語られることによって、「内に」閉じこめられることを充分意識すること、ある規則を適用しつつ写真にまつわる言葉を分節化していくのではなく、写真にまつわる言葉を分節化していく営みこそが、ある規則・暗黙の了承をかたち作るのであるという観点からいまいちど事態をとらえ直すことが必要である。例えば「写真の持つ独自性」を語ってしまったとき、それを言葉によってしか指し示し得ないがゆえに、それについて常に語りそこなうのであるという認識は、「写真の持つ独自性」をあらかじめどこかに在るものとして語ってしまっているという意味でいまいちど検討されなければならない。「写真の持つ独自性」を語ってしまったときに、それが言葉によってしか指し示し得ないがゆえに常に語りそこなうのではなく、実際には語ってしまうときに、それが自身に語られること(読み・聞くこと)によって成り立っていることを無視することによって、それを在るものとして語りそこないながらも語ってしまうような立場をいまいちど見直してみること。語り/語られることによってこそ、「写真の持つ独自性」を在るものとしてとらえることが可能であり、まさしくそのことによって「写真の持つ独自性」そのものが成り立っているのだという立場にとどまること。暗黙の了承・暗黙の規則に対して何かそれを明晰に語り得る立場を楽観的に想定するのではなく、語ったことが語られたこととして受け入れられるがゆえにそれらはいつも暗黙の了承・暗黙の規則なのであるという認識にとどまること。語られたことが受け入れられた事後にその了承・規則について結果として語ることは可能であっても、その了承・規則をあらかじめ在るものとして想定することは不可能なのである。そしてその語られた暗黙の了承・暗黙の規則を語ることによって明晰なものとして語ろうとするとき、その言葉は語られたものとしてみずからが暗黙の了承・暗黙の規則として機能せざるを得ない。あらかじめ想定することが不可能なものとしての規則−暗黙の規則の「内に」私たちはとどまることを避けられない。暗黙の規則はいつも「外から」しか明確に語り得ず(逆に言うと、語り/語られる自身の言葉の分節化に目を閉ざすことによってのみ、「外に」自身の立場を置き、「明確に」暗黙の規則を語ることが可能になる)、そのように総体を「明確」に語り得る言葉はそれゆえに常に暗黙の規則を内包してしまうこと、そのことを充分意識しつつ事態はとらえ直されなければならない。
 同じことが写真についても言えるだろう。私たちはある関係を写真と取り結ぼうとして写真を見る(読み・語る)のではなく、読み取りとしての多様性を示すために写真を見るのではなく、ある選別と排除の規則をもって写真を見るのでもなく、語り/語らされる見る)ことによって語られ、ある関係を写真と取り結び、多様性を読み取り、選別と排除の規則をいつも結果的に措定するのである。それらはいつも事後的であるがゆえに常に暗黙の内にある。そして語られたこととして受け入れられたときに始めて了承され、規則として機能するがゆえにそれらは常に一義的である。写真をただ素直に見る、写真をただ見ることがあり得ぬものであることは、写真を見ることが言葉によって写真を分節化する営みであるからと言うよりも、写真をただ見る(読み/語る−言葉によって写真を分節化する)ことが自身に語られることによってすぐさまある規則に事後的に従うから、と言うべきであろう。写真をたんに見る(読み/語る)ことが、ある言葉を発したとき、自身がその言葉を語られたときに、写真は言葉によって分節化されある解釈・判断にすぐさま回収され「理解」されるのである。同じように、見る者がネガティヴな存在であると言うとしたら、語り/語らされることによってこそ写真と取り結ばれるからというよりも、語ることを自身に語られること(聞き・読んでしまうこと)により、いつも結果的・事後的に写真と取り結ばれてしまうことが避けられないからと言うべきである。あるいは、そのような認識にとどまらない限り、懐疑的でありそれを明晰に語ろうとする企てが結果的に一義的な「理解」のもとに回収されるという循環をくり返すことになるだろう。写真にまつわる暗黙の了承・暗黙の規則は、どこか現実に在るものとしてそれが成り立ったあとで思考されるのではなく、それがいつも事後的に見い出だされるがゆえに暗黙の内に置かれるのだという認識において思考されなければならない。