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[写真の規則2:読み語ることの諸相について/FILM ROUND GAZETTE 1989年4月号:4]


 写真を見る、と私たちは言う。見る、と言ってしまったとき、それに連なるのは言葉である。写真を見、そして私たちは写真を語る、言葉によって。写真について語ることとはとりもなおさず写真を読むことである。読むあるいは語るという言葉はいささか見る者という主体の恣意的な営みを感じさせるが、写真について語ることもそして読むこともまさしく言葉を通してしか成り立ち得ない以上、語ることは語り/語らされること、読むことは読み/読まされることであり、すなわちそれは写真があり言葉を通して見る者が写真を解釈するといった構造ではありえない、見る者が言葉で読むことをしたとき始めて写真は存在することを始めるといった事態を意味する。写真が存在しそしてそれを読みそれについて語るのではなく、写真を語ったときに始めて写真を存在として見るのである。このことはある特定の主体があってそれが写真を解釈し語るのではなく、解釈すること(語ること)自体が写真と主体を取り結ぶのであるということを意味する。語る主体とはある特定の解釈を写真に向ける確固たる存在ではあり得ないばかりか、写真の前で語り/語らされるあるネガティヴな存在である(語り/語らされることを抜きにしては写真に対して見る者は存在することができない)。
 とすれば、写真を見、そして語るといった言いまわしは適切なものではない。写真という存在があり、見る者がいて、それを解釈する言葉があるという図式で私たちは写真を「見ている」訳ではない。読むこと語ることは、見ることと同義である。写真を見ることとはすなわち、言葉によって写真を分節化する営みにほかならない以上、写真をただ素直に見るという立場は、あり得ぬものとして排除されねばなるまい。「言葉に出来ない何か」といった類いの言葉を写真にさしむけたところで、それが言葉である以上、「言葉に出来ない何か」という言葉による写真の分節化であることは明らかである。その「何か」を写真の持つ魅力・独自性として語ってしまったそのとき、私たちはそれを言葉によってしか指し示せ得ないゆえに、同時にその「何か」について語りそこなうという逆説は常に念頭においておく必要がある。そして写真を読み語る存在は、写真に対立する項としての主体としての自身を置き、判断・解釈しそれを提示するための権利をもって語るものではなく、まさしく語り/語らされる者として写真を写真たらしめている存在であるということを踏まえた上で、写真にまつわる言葉は(つまり写真は)読まれるべきであろう。
 言葉という制度がもつ不自由さ、そして写真のもつ魅力・独自性を語ることが常に写真を言葉によって分節化し、その結果その魅力・独自性を語り得ないという二重の困難から逃れようとするとき(単純に逃れ得るものだと錯覚するとき)、見る者は判断・解釈する権利をもつ確固たる主体に身をおくことで(写真−見る者を対立する項とすることで)、写真から遠く離れていくという逆説的な営みを繰り返すこととなる。(写真と自身とのそうした関係性を基本的に無視したところでとられる立場からいかに饒舌に写真を語ろうとも、それはその関係性に目を閉ざしているのだから、実質的には写真は無関係な単なる料理されるべき素材として扱われることとなる。−もちろんそのような言説は結果においてはある関係を写真と結ぶのであるから、それについては無視することは出来ないし、むしろ慎重に検討すべき対象であろう)。
 写真と言葉は違うのだ、という単純な断定・区別、それが言わば饒舌の無法地帯をかたち作る。写真は逸話や現象といかようにも結び付けられ、逸話や現象により分節化されいかようにも写真は語り得るものとしての存在になる。例えば「写真はひとり歩きする」といった言い方のもとに保障される読み取りの多様性は、写真を見ることは写真を読むことであるという事態を実質的に無視した、読み取りとは写真と見る者の間にいかようにも解釈のための媒介物を置き得るという、読む態度としては同じ図式のもとへ還元される実際には一義的な営みである。それは写真を見る/読むことの多様性ではなく、見ることを読むことといったん切り離したうえでの解釈の多様性、すなわち写真を見る対象として措定することによる、写真をいかようにも言葉により分節化し得るという多様性である。そのような言説が生みだせ得る立場は、写真を言葉により分節化することが写真を見ることであり読むことであるという事項を外した楽観的な立場であり、実際には写真がどのように言葉によって分節化されたのかという事柄には問い掛けない一義的な立場である。(つまり写真を媒介物を軸に見ることと対立させることによっての多様な解釈そのものが、写真の多様性そのものを覆い隠すのである−そのような言説に対しては、写真の解釈のための媒介物の妥当性を論じることにより同様の図式に陥いるのではなく、結果として写真がその言葉によりどのように分節化されたのかということを検討の対象とすべきであろう。)
 問題は、そのような現象が写真についてあらゆるレベルで起こり得るし、実際に起きていることにより、事態は混乱を極めていることにもあろう。例えば、写真を日常的なものとして狭い共同体(例えば家族・友人など)で楽しむ層が存在し、写真を商業的な媒体として機能させる層が存在し、こう言ってよければ写真を芸術として営む層が存在するといった共通認識めいたものがある(こういった区分が実態に即しているかどうかは必要ならば別に検討されなければならないだろう。もっと違った区分を設けることも可能であるし、この区分を細分化していくことも可能であろう。だがここではこうした暗黙の差別化こそが重要である)。一枚の写真が生みだされる過程を見ることと(それは常にその写真が提示される場とも密接に関わるが)、一枚の写真を見ること/読むこととの混同が、互いの「写真」を差別化し、写真を細かく分類していくことで互いに関係のないものとして、写真を温室のなかに追いやる(別の分類項から写真を取り出し再評価といった「読み」を加えることもまた二重の差別化として理解すべきである)。「写真をただ素直に見る」ことが直ちに言葉にによる写真の分節化に吸収されることと同様に、「(私には)関係のない写真」という差別化がまた直ちにその写真の存在を想起させる以上、互いを無関係なものとして措定しえないばかりか、互いの写真が互いの写真をより際立たせるのである。ということは、いかにしてその分類がなされたのかということよりも、分類することがいかなる機能をもちそしてどのようにしてそれが可能なのかということにおいて思考しなければなるまい。そして、こうしたことを踏まえた上でなされたといわ言われる写真の読み返しが、実質的な新たなる分類項の作成という単なる意匠の更新となっているのではないかということからの問い直しも忘れてはなるまい(ある種の写真の歴史は意匠の更新の歴史でもあるようである。また、「新しい写真」という言い方で形容される写真はそうした従来の分類項に収まりきらない写真という名目でなされる言説の意匠の更新でもあるようだ。−だとすればそれらはいずれも写真を読み/語るということが見ることにほかならないという性質を無視していることから、写真について包括的なものと成り得てはいないだろう)。ある種の「写真」を排除したところで織り成される言説は、その排除の根拠をこそ始めに問われなくてはなるまい。