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[写真の規則1:序文―暗黙の了承に向けて/FILM ROUND GALLERY LETTER 1989年3月号:1]


 写真に意識的に関わり始めたここ数年の短いあいだ(実際には意識的に関わり始めてからずっと、長いあいだ)、直接的な関わり(自分の写真あるい他人の写真をはさんでの対話など)の中で、そして間接的な関わり(写真に関しての他人の会話を聞いたりあるいは刊行された文章を読んだり)の中でかわされる言葉が、しばしば私を戸惑わせていた。写真についてかわされる言葉が多くの場合、その写真を説明はしてくれるが、どうしてその印画からそうした言葉がつむぎだされるのか、という根拠に対しての疑問には答えてくれなかったからである。その写真に関する判断(好き/嫌い・良い/悪い・面白い/つまらないetc)から派生する言葉に対する説明は無数にあるのだが、その言葉が判断の根拠そのものの妥当性について語ってくれることは少なかった(多くの場合、根拠は積極的にあるいは消極的にただ断定されていた)。おそらくそれは写真のもつ二重性そして写真そのもののとりとめのなさゆえに、まずは写真を逸話で飾り立てたりあるいは他の現象の意味ととりあえずは結びつけてやらなければ語り始めることが困難であるからに違いないのだが、言葉は写真の周辺を居心地が悪そうにからまわりしては逆転して、写真そのものから遠ざかっては饒舌になっていくのだった。なぜ写真がそう語られなけらばならないのかというという基本的な問いにそれは結局は答えてはくれないばかりか、それが写真について語られているようにみえる以上、根拠を失った饒舌は多くの場合実際には写真を取り囲み写真を息苦しくしているようでもあった。(自覚的にせよ無自覚にせよ)根拠を失った饒舌がたずさえる形容詞は、無害であることは少なく、写真に対して暴力的に作用する。もしその言葉が悪意のもとに発せられているのでもなければ、あるいは非常に実利的な意図で発せられているのでもないとするならば、それは写真について語っている言葉が写真を窒息させているという不幸な擦れ違いとでも言うべきことである。
 暴力的な饒舌であろうがその言葉が結局は写真を抑圧していようが、とにかく写真をはさんで言葉が行きかうこと自体が、写真をその饒舌から解き放すのだという倒錯的な立場を支持する気にもなれず(「あえて」という戦略を欠いた倒錯はただ楽天的なだけであり、また「あえて」倒錯的であるには写真をそこまで追い込んだ言葉はあまりにも少ない)、さりとて写真に対して沈黙を決めこむこともできない(そうするには写真にとって言葉はあまりにも近くにある――誰もが写真を「知っている」)割り切れない気持ちにはさまれながら、自分自身も写真に対して直接的・間接的に言葉を発してきたのだが、幸い(あるいは不幸にしてか)LETTERという場を提供していただけるということなので、私の言葉がそうした饒舌の一部を形作らないという保障も自信もないが、自分のなかでくすぶり続けている写真に関して自明のことのように語られる暗黙の了承に対する素朴な疑問を、少しでも明らかにしていく場として、次回から使わせていただきたいと思っている。