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[ボルツの写真はあなたの眼へのマッサージ:ルイス・ボルツ『PHOTOGRAPHS 1985』/日本カメラ1988年7月号:142]


 こんな写真のどこが面白いのだろう、とルイス・ボルツの写真を見たあなたは思うかもしれない。こんな石ころや岩やゴミを写さなくても、アメリカには砂漠や渓谷や湖など美しい被写体があふれているはずなのに。では、あなたはどうしてきれいな山や草花にカメラを向けたり、家族や恋人にカメラを向けるのだろう。なぜ夕日が落ちてくるのを待ち、笑顔を待ってシャッターを切るのだろう。良い被写体や良いシャッターチャンスを選んでいるのは、自分自身というよりも「カメラを持った自分」だったりするのではないだろうか。カメラを持たなかった頃に、風景を今のように見たり、その美しさに感動してしまったりしただろうか。言ってみればそれはカメラによる美しさの再発見なのかもしれないのだが、逆に言えばカメラを持ったために見ることが形式化してしまったとも言える。試しにカメラをもって散歩に出て思ったままに写真を撮ってみるといい、案外できた写真は今までと同じようなものだったりする。自分の個性だと思いこんでいたものが単なるクセであることに気づいたりする。カメラという機構と自由な関係を持つのは結構しんどいことなのである。
 ボルツの写真は、カメラを持ち慣れてしまったあなたの眼への、静かな異議申し立てなのかもしれない。カメラはこんなものも見ることができるのだという、あなたの眼へのマッサージ。だからボルツの写真には、ことさら岩を美しく仕立てあげたり、きれいな背景を選んで木が撮られていたりなんてことがない。目をひくような特殊なレンズも特別な技法も使っていない。何のへんてつもない二本の木や、がれき、岩、ぬれた地面などがただ写っているだけ。しかしたったそれだけのものを今見ているのは、ボルツがその風景にカメラを向けフィルムに定着し印画紙に焼き付けたからこそなのである。何の理由づけもなく写されたような彼の写真のなかにこそ、形式的になってしまった見るということから解き放された、自由な眼差しと、写真の本来のそしてまだまだ使い出のある機能が見えてきやしないだろうか。
 そうしてリラックスして見てみれば、わけの分からない難しいものに見えていた彼の写真からいろいろなことが見えてくるに違いない。がれきが朝の光に美しく見えた一瞬を、午後のやさしい風に少し木々が揺れた瞬間に目を奪われたことを思い出すかもしれない。別にクールに見える写真から情感を感じたっていけないわけじゃない。ボルツの写真は今この時代の環境へと目が向けられているものなのだから、豊かなものを感じとることだってできるはずだ。映画で見たこともあるかも知れないけれどハイウェイの両側にひろがるとりとめもない荒地、そんなアメリカ中西部に住む人々にとってはまさにこれらの写真の風景は、ありふれた、自分達をとりかこむ環境に違いない。ボルツの写真が少しでもあなたの眼にひっかかって気になり始めたら、『パーク・シティ』や『サン・クエンティン・ポイント』などの彼の写真集をぜひ見てみよう、自分の眼がボルツの写真に知らず知らずのうちに説得されていくのを発見するだろう。