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[郊外写真の頂点と限界:小林のりお『ランドスケープ』/日本カメラ1987年2月号:112-113]


 多摩ニュータウンを主に新興住宅地を撮った90ページから成るこの写真集には、文章による一六ページの小冊子がついている。これは作者を知るには大変親切なものになっているのだが、その中の小林の文中にみられる矛盾した表現がそのまま写真にも反映されているようで、写真集を見終った時の全体の印象を、少々緊張感を欠いたものにしてしまっている。
 例えば小冊子の中の小柳むすぶとの対談で小林は「社会的問題として撮るというより、まったく『個人的な欲望』として撮っている」といいながらも、写真集の中では「企業のカタログイメージによって囲まれてしまった写真家にとって、残された最後の手段は『目には目を、歯には歯を、カタログにはカタログを』なのだ」という。後者の表現は、立派に一つの社会的態度を示していると思うのだが。
 彼の「表現というより測量行為に近いのかも知れない」とか「表現ではなく風景自身を表出させること」という文からうかがわれるのは、写真の中から自分の存在を消し去り、記録として成立させたいという欲望である。パノラマカメラの多用については「その横長画面ゆえに、写真家自身の主体性を稀薄にしてくれるからに他ならない」と彼は述べているが、その消極的な機材へのたより方が、カメラのうしろに立つ自分の主体性をも稀薄にしてしまい、結果的にその記録性をもあいまいなものにしているようである。「測量行為」は主体性ぬきでできるものでもあるまい。小林は巻頭で「ロバート・アダムスのなんの変哲もない風景写真にひかれる」と書いているが、そのアダムスは環境汚染防止運動の活動家でもあるということを思い起こしてほしい。自分が社会的に中立の態度をとるということが、すなわち風景に対するニュートラルな態度につながるということではないのである。
 この写真集はこうした態度の持ち方・方法論による一つの頂点と、同時にその限界をしめしているようだ。この一冊が、最近とみに見かけるようになった郊外写真の拡大再生産に歯止めをかけるものになることを願いたい。
 むろん、私たちをとりまきそして侵蝕する近郊都市の環境が、こうした形でまとめられたことは貴重である。「開発」という名の風景・環境の均一化が到るところで見られる現在、見る側に「どこかで見たことのある風景」を思いおこさせるという意味で、これらの写真は普遍性を持っていると言えるだろう。
 「写真」に関わる人だけでなく、新興住宅地に現在住んでいる人に、これから住もうとしている人に、そして何らかの形でその環境に関わりをもつ人々に、日曜日の気だるい午後にでもゆっくりと広げてほしい写真集である。