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[夢の書棚:過去は懐かしむためのものではなく、未来のために用意された教訓・半藤一利編著『敗戦国ニッポンの記録』/日本カメラ2007年12月号:159]


敗戦国ニッポンの記録 昭和20年~27年 米国国立公文書館所蔵写真集 [上巻] 敗戦国ニッポンの記録 昭和20年~27年 米国国立公文書館所蔵写真集 [下巻] 米国国立公文書館所蔵の写真によって戦後日本の姿を編んだ、上下2巻の写真集が出版された。タイトルは、『敗戦国ニッポンの記録』。

いつのまにか昭和が懐かしむ対象になり、アメリカと日本が戦争したことを知らない若者もいるといわれるこの時代に、あえて敗戦国という言葉がタイトルに用いられているのは、「過去は懐かしむためのものではなく、未来のために用意された教訓なのである」という、編著者の半藤一利の思いが込められているのかもしれない。

タイトルの敗戦国という言葉は、写真を考えるうえでも、いくつかの意味で示唆的であるように思える。

敗戦国があるということは、当然のことながら、戦勝国があるということである。敗戦国という言葉は、この本の写真が、アメリカという戦勝国によるものだということを、はっきりと意識させる。占領状態にある敗戦国を、つぶさに写真で記録する戦勝国。このことは、撮る側と撮られる側、見る・見られる関係といった、いまではほとんど語られることがなくなった、写真における力の関係を、あらためて思い起こさせる。

しかしながら、他方で本書が浮かび上がらせるのは、写真における力の関係は、そうした二分法で語りきれるほど単純なものではないということでもある。というのも、この写真集は、戦勝国アメリカで編集されたのではなく、敗戦国である日本において編集されたものだからだ。本書の成り立ちは、次のように記されている。

「本書は、米国国立公文書館(以下 NARA=United States National Archives and Records Adoministration)に所蔵されている写真をもとに編集された。NARAはアメリカ合衆国政府の書類と歴史的価値のある資料を保存する公文書館であり、NARA1とNARA2、さらに30を越す分館を全米に持っている。…日本人にとって貴重なのは、NARA2にある太平洋戦争や戦後占領下の日本に関する資料である。日米開戦前のやりとりや真珠湾攻撃などに関わる真実、原爆投下に関する疑問、日本の統治計画や極東国際軍事裁判など、日本国内では入手できない資料をNARA2は豊富に所蔵している。本書で採り上げた写真もここに保管されていた。最近ではインターネットの検索サービスをしているGOOGLEとの提携で、保管されている膨大な映像資料が手軽に検索・閲覧できるようになり、話題を呼んでいる」

NARAの資料のほとんどは、著作権に制限されず誰でもオープンに活用できる、パブリックドメインだといわれている。パブリックドメインを直訳すれば、公の所有ということになるが、この英語のパブリックと日本語の公の語感の違いには、文化の違いが端的にあらわれているように思われる。ごく大ざっぱにいうなら、アメリカ文化には、ドキュメントをパブリックにオープンにするのはいいことだという思想があり、大きな流れとしては、じっさいにそういう方向に向かっている。たった2人の若者が創業したGOOGLEが圧倒的に支持されることになったのは、その思想を体現したからでもあり、そう考えれば、公文書館とGOOGLEが提携することは、当然の流れであり何の不思議もない。というより、そもそもインターネットが、そうした思想の延長線上に生まれたものなのだといえよう。

むろん、アメリカが戦後の日本を撮ったとき、現在のような時代を見とおしていたわけではないだろう。だが、記録することの思想が未来を構想し、時代を織り成す力になったと考えることもできる。この力の網の目は、単純な二分法で捉えられるようなものではない。

現実のなかで写真における力の関係を繊細に捉えることと、未来に向かって写真の力を構想することは、矛盾しない。「過去は懐かしむためのものではなく、未来のために用意された教訓なのである」という言葉は、本書の内容だけでなく、本書を可能にした枠組みにも当てはまるように思える。