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[夢の書棚:逆光など気にせずシャッターを切る・何はともあれ何でも撮る・周防大島文化交流センター編著『宮本常一写真図録第1集・瀬戸内海の島と町 広島・周防・松山付近』/日本カメラ2007年10月号:163]


瀬戸内海の島と町 広島・周防・松山付近 (宮本常一写真図録 第 1集) 『宮本常一写真図録第1集』によると、民俗学者・宮本常一が73年の生涯に残した写真は、およそ10万点だという。「車窓の風景」という章では、宮本の興味深い撮影方法について、こう記されている。

「小型で軽量のキャノネットやオリンパスペンを携帯し、旅先で民家に上がりこんで話を聞いている時以外はカメラを手放さなかった。話を聞き終えなお時間があると、村の中を歩きまわり、民家や民具、畑や山林など、目に留まった村の様子は全て写真におさめた。旅の途中でもそれは変わらなかった。移動する列車やバスの中からも過ぎ行く景色を見つめて、気になるものがあると、すかさずシャッターを切った。アングルもフレームも、逆光だろうと夕方だろうと、気にして撮った様子はない。だから本人は写したつもりでも、ネガの中にはボケていたり写っていないものもかなりある」

気になったものは、何はともあれ何でも撮る。これは、デジカメやカメラ付き携帯電話が普及した現在では、ごく普通の感覚といえるだろう。興味深いのは、宮本が何十年も前から、現在ようやく当たり前になったような撮り方をしていたことだ。これは驚くべきことではないだろうか。「車窓の風景」では、1961年に列車やバスから撮影された連続写真が掲載されているが、これを見ていると、現在の感覚で写された過去を見るような、とても不思議な気持ちになる。

10万点というカット数は、プロやハイアマチュアなら、とりたてて多いわけではない。しかし、そうした写真は、ほとんどの場合、何を写しているのか明確であり、何らかの分類にそって撮影されているものである。「車窓の風景」の写真はそうではない。ある関心にもとづいて撮影されていることは推測されるものの、一枚一枚画面が吟味されているわけではないし、写真的な分類にそっているわけでもない。宮本の写真全てを見る作業をした伊藤幸司は、「宮本写真の変遷を読む」で、次のような疑問を投げかけている。

「十万枚の写真記録の最初は昭和三十年の五月だが、宮本先生はすでに五十二歳。若いころから写真を撮り、名取洋之助などという日本のトップデザイナーと写真を編集する体験もしている。民俗学のフィールドワーカーとしての写真の撮り方など熟知のうえで、一見、乱雑な撮り方をしているのはどうしてなのか」

宮本は、いわゆる写真の文法をよく知りながら、あえてそれに収まらない撮り方をしていた。伊藤は、さまざまな読み方の仮説を展開しながら、「車窓写真に限っていえば、一見わかりにくいものに、実は大きな発見が隠されている可能性が大きい」と述べている。「解説」で独自のまなざしに注目している佐野眞一もまた、「宮本の写真はいつも、新しい発見に満ちている」と書いている。写真の文法から逸脱しているからこそ、宮本の写真には可能性がはらまれているのである。

前述したように、現在は、何はともあれ何でも撮るような撮り方が可能になった時代である。これから10年も経てば、ごく普通の人でも、10万点の写真を撮っていたというようなことが珍しくなくなるだろう。これはじつは、写真表現にとって未知の領域である。そうした写真を撮る条件は揃っているが、どういう関心で何を撮り、どう整理し、どう活用するか、まったく見当がついていないのが、現在という時代でもあるのだ。従来の写真の文法だけでは、とうていこの未知の領域に対応することはできないだろう。

過去について考えることは、未来について考えることでもある。こうした未知の領域を考えるとき、宮本が残した10万点の写真は、大きな示唆を与えてくれるのではないだろうか。宮本の写真が民俗学的に貴重な資料であることはいうまでもないだろうが、それはまた写真表現にとっても、生きた可能性であるように思えるのである。