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[夢の書棚:ライカで撮った昭和10年代の東京・2.26事件の同時代を活写・『桑原甲子雄・東京下町1930』/日本カメラ2007年5月号:187]


東京下町1930 『東京下町1930』を見て、まず感じるのは、古くて懐かしい写真ということだろう。今は失われてしまった下町の風景と、そこに生きる人々の写真。それを見て、懐かしく感じるのは当然のことのように思える。しかし、かならずしもそうではない。

まず、懐かしいと感じるためには、この写真集に収められた光景を知っていなければならない。古い写真であっても、何の関係も関心もない光景だったら、懐かしいとは思わないだろう。たとえば、郊外の住宅地に育った平成生まれの若者が、この写真集を懐かしく感じなくても不思議ではない。

では、古い写真ということは、自明だろうか。80年近く前に撮られたのだから、たしかに古い写真であるには違いない。しかし、昔撮られたということと、古く見えるということは、まったく同じではない。本書の写真は、すべてモノクロである。モノクロというのは、古く見える要素のひとつである。しかも、どういう意図なのかわからないが、本書の多くの写真では、傷やゴミが修整されず、そのまま印刷されている。傷やゴミのついたモノクロ写真は、古く見える写真の典型でもある。

どんな古い町でも、新しい町だったときがあるように、どんなに古い写真でも、はじめは新しかった。桑原甲子雄も、はじめから古い写真を撮ったわけではない。それどころか、桑原が撮った写真は、形式の面でも、技術の面でも新しい写真だった。桑原は「私の略歴」という文章で、次のようにいっている。

「当時は新興写真の影響を受けてか盛に建物を曲げて写したり、カメラアングルを用いてやたらに新しがりお互に大いに悦に入って居た訳でした」

「…未だ覗いた事の無いピントグラスで悠っくり被写体と取組み、いささか画に変った味を出そうとローライへ転向を試みました。しかしライカの軽快味に馴れ過ぎた故かスナップを好む僕の作風に対しては取扱、フィルム枚数に制限を受けて、チャンスに臨んで機を逸することしばしばでした」

「乾板と云うものも使ったことなしに近代写真術のお陰で、どうやらここまで赴りつきました」

このように、桑原の写真はさまざまな意味で新しいものだったが、くわえて本書には、もうひとつの新しさがある。それは、この写真集そのものが、2006年に発行された真新しいものだということである。

写真集というものは、オリジナル版が何十年も再版され続けるということはきわめて稀で、思いのほか残らないメディアだ。たいていの場合、写真が本として残るためには、何度も再編され、再出版され続けなければならない。70年代の再評価によって、広く注目されるようになった桑原の写真の場合は、とりわけこのことがはっきりしているだろう。

再編、再評価というのは、まぎれもなく、今ここで見出される価値である。古くて懐かしい写真というものもまた、今日的な願望である。そして、いささか堅苦しい言葉でいうなら、価値と願望とは、イデオロギーにほかならない。

桑原の写真が懐かしいことに異存はない。だが、この郷愁は、時代や思想に属するものではなく、あてもなく撮り続けるという途方もない写真的な行為から生じているものなのではなかろうか。桑原甲子雄の写真の郷愁は、イデオロギーの彼方にある、と私は思う。