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[夢の書棚:写真を現代アートに押し上げたジェフ・ウォールの仕事が日本語版として初登場・『ジェフ・ウォール』/日本カメラ2007年3月号:179]


ジェフ・ウォール (コンテンポラリーアーティストシリーズ) 今さらこんなことをいうのも何だが、じつは私は、写真がよくわからない。

写真が迷宮的だとか、魔術的だとか、そんな高尚な話ではなく、ただ端的にわからない写真が多いのだ。

とくにわからないのが、ヨーロッパの写真。知らないヨーロッパの言葉を見聞きしても、何のイメージもわかないように、ヨーロッパの写真を見ると、慣れないフレンチレストランに行って、まるで見当もつかないようなメニューを広げたときのような、惨めな気分になってしまう。

それにくらべてアメリカの写真は、何となくわかるような気がすることもある。言葉はよくわからなくても、アメリカのロックを聴いて、「ラブ・ユー、オー・イエィー」だけで、少しはわかったような気分になる、そんな感じである。

そんな私にとって、カナダ人アーティスト、ジェフ・ウォールは印象深い作家である。勝手な思い込みなのかもしれないが、少しはわかるアメリカと、かなりわからないヨーロッパの、橋渡しをしてくれた作家であるような気がするのだ。

初の日本語版作品集となる『ジェフ・ウォール』では、ウォールをこんなふうに紹介している。

「ウォールの作品では、こうした多様な要素が――伝統的な具象絵画、映画、ミニマリズム、コンセプチュアル・アート、ドキュメンタリー写真――きわめて自覚的に探索され、喚起されていく。…アーティストとしてもコンテンポラリー・カルチャーの理論家としても、表象の理論とその社会的側面の両面において洗練された実践をつづけている」

なかなか難解である。ウォール自身の発言はさらに難解だ。どこでもいいのだが、ちょっと引用してみよう。

「たとえば議論を別の段階へと進めて、資本主義の構成的なレトリックにおいてモナド的な人間として全一化された生物的な個人、というのはむろん社会的存在ですが、それについて考えてみましょう。では資本主義は、文化的批評が成立する地平であるでしょうか?」

このように、言葉はとても難しい。しかし、不思議なことに、作品はむしろ以前見たときよりも親しみやすく感じるのである。どうしてだろうか。

おそらくは、この10〜20年のあいだに、日本でも似たようなテイストの作品が増えたからである。たんに見慣れたから、近しく感じるのだ。20年前には、ワインは気どったお酒だったが、今では、ウンチクなしでコンビニで買って飲んでいたりする、それと同じようなものだろう。

だから、この作品集は、若い人だったら、面白いとか、好きとか、もっと感覚的に近しく受けとめることができるに違いない。なにせ、ビートルズを現役のバンドだと思って聴き流すような若者もいるのだから。

これは、いいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。

おそらく、どちらでもなく、どちらでもいいことなのだろう。

作品の近しさと、言葉の難しさのこのギャップこそが、ウォールの作品が現代的(コンテンポラリー)であり続けているゆえんであり、だからこそ、ウォールはつねに異なるものを橋渡しする作家なのだから。