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[書評:アマチュアに敬意をはらったプロ中のプロ・山田一廣『冬の薔薇・写真家秋山庄太郎とその時代』/日本カメラ2007年1月号:181]


冬の薔薇 写真家秋山庄太郎とその時代 「讃婦人科」という言葉がある。秋山庄太郎の異名である。かつて、女性写真を専門に撮る写真家は、「婦人科」と呼ばれた。秋山にはこれに、「讃」が付くのである。

ひとことで言うなら、女性の美しさを讃え、撮られた女性からも喜ばれるような写真。悪く言えば、面白味のない、紋切り型の極みのような写真。それが「讃婦人科」の写真である。とりわけ、日常的なものから、過激なものまで、女性の写真があふれている現在では、何の面白味もないような写真に見えるに違いない。

しかし、そのような紋切り型の写真にも、じつは、新しすぎて受け入れられなかった時代があった。ありのままの姿、自然さを重んじる秋山のスタイルは、クラシックなものに見えるが、そこに至るまでは、山あり谷ありの道のりがあったのである。

秋山庄太郎の82年の生涯をテーマにした、山田一廣による『冬の薔薇―写真家秋山庄太郎とその時代―』では、写真にはあらわれてこない、そうした道のりが存分に描かれている。たとえば、没個性的で紋切り型の写真については、次のような言葉が引かれている。

「個性を抑えることで、無難なかわりに魅力のないものになってしまう恐れも十分にあった。問題は、個性的作風の魅力を小出しにしながら、粘り強く読者に期待させることにあった。プロというものは辛いもので、絶対失敗が許されない」

つまり、秋山の紋切り型は、計算しつくされた、プロフェッショナルなものであったのだ。憎らしいほど強い横綱のようなもので、面白味のないことこそが、面白味なのである。秋山の言葉に、「アマチュア畏(おそ)るべし」というひとことがある。プロ中のプロだからこそわかる、制約のないアマチュアの自由さ。だから、「恐る」ではなく、「畏る」なのだ。

今日では、秋山ほど没個性的な写真を撮れる写真家はいなくなってしまった。紋切り型を嗤うことはたやすいが、型そのものが美の極みであるような写真は、秋山のような強烈な個性にしか撮れないものだったのだ。『冬の薔薇』は、失ったものの大きさを、しみじみと感じさせられる一冊でもある。