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[夢の書棚:どうやって稼いだり、食べたりしてるんですか・森山大道『昼の学校・夜の学校』/日本カメラ2006年12月号:215]


昼の学校 夜の学校 影響を受けた写真家として、一番よくあがる名前は、おそらく土門拳だろう。土門拳に次いであがる名前は、森山大道だと思う。そして、このふたりの名前が、それ以外の写真家を大きく引き離している。べつに統計をとったわけではないので、たんなる推測にすぎないが、それほど外れてもいないのではないだろうか。

影響を受けた写真家というのは、影響を受けた写真とは違うし、好きな写真家というのとも違う。そうした問いだったら、もっとさまざま写真家の名前があがるだろう。影響を受けた写真家というのは、たぶんもっと特別な存在なのだ。その人が撮った写真はもちろんのこと、生き方そのものに影響を受け、世界の見え方が変わり、自分の人生までもが変わってしまったような存在。それが、影響を受けた写真家なのだろう。

写真を見て、それに触発されたり、影響を受けたりすることはわかる。だが、それだけでは写真家の人生に影響を受けたりはしない。なぜなら、どのように生きているのか、写真からは、わからないからだ。では、どのように人生を知るのか。さまざまな知り方があるだろうが、多くの場合、活字メディアだろう。したがって、影響を与えるような写真家は、よく語り、よく読まれてきた写真家だともいえる。

森山は、その作品からすると、写真だけをたんたんと発表しているような寡黙なイメージがあるが、じっさいには、たくさんの言葉を発してきた写真家でもある。『犬の記憶』『写真との対話』『写真から/写真へ』『犬の記憶 終章』、そして今回出版された『昼の学校 夜の学校』といった著作はもとより、雑誌などでもフィーチャーされることが多い。

たとえば、『昼の学校 夜の学校』では、次のように語っている。

〈いわゆる「プロのカメラマン」というのは、基本的に依頼仕事があって、プロとしての腕をふるって生活も成り立つわけだけど、ぼくにはそれが、ほとんどないんだよ。結局、何をしているかというと、基本的にふらふらと自分の写真を撮るだけなんだ〉

〈写真はぼくにとってどうしようもなくさ、言葉にするのをためらうぐらいの引力を持っていてね、なんか、写真の魅力をつべこべ言っても仕方ないっていうか、いまさら恥ずかしいっていうかそんな感じですね。…結局ぼくという一人の個人が、唯一現世で関わることができたもの、こだわることができたもの、それが決定的に写真だったっていうほかないなあ〉

若いときに出会ったら、そういう人生もアリなのかと、クラッときてしまいそうな魅惑的な言葉である。だが、影響を与えるような写真家というのは、それだけではない。土門月例の言葉が、夜が明けるのが待ち遠しいくらい写真を撮りたくなるものだったように、写真を撮ることに導くような熱い言葉ももっているものなのである。

〈それと皆さん、本当に沢山写真を撮ってください。絶対に、沢山沢山撮ってください。ひとまず量のない質はない、ただもうそれだけです、ぼくの唯一のメッセージは〉

〈夏こそカメラマンの季節です。暑い夏の炎天下、街が真っ白に見えて、まつ毛の汗で風景がにじみます。そんなクラクラするときに写真を撮るのがぼくは一番好きです。皆さんも夏、気合いを入れて沢山撮ってください〉

こんな言葉に触れたら、なんだかわからないが、写真をガンガン撮りたくなってしまうだろう。

ところで、こうした写真家に影響を受けた者の人生とは、どのようなものだろうか。写真は、昔のように穀潰しの趣味とはいわれないだろうが、湯水のように写真を撮るようになってからすっかり堅気になったという話も聞かないから、今でも度が過ぎてはいけない道楽に違いない。

だが、『昼の学校 夜の学校』には、人生を軽々と趣味の向こう側に誘ってしまうような力がある。向こう側に行ってしまってから、悪い奴に惚れてしまったと思っても、もう遅い。悪い奴ほどよくしゃべる。気をつけた方がいい。