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[夢の書棚:超大判で重い塊のこの写真集の途方もない違和感を真摯に受け止めるときがきた・ジョール・マイヤーヴィッツ『AFTERMATH』/日本カメラ2006年11月号:209]


Aftermath: World Trade Center Archive 繊細な色彩表現で知られるアメリカの現代写真家、ジョール・マイヤーヴィッツ(Joel Meyerowitz)は、書くたびに深く記憶に残る写真家だ。作品も印象的だが、それよりも記憶に残るのは、名前である。ファーストネームは、ジョール、ジョエルの二通りだけだが、ラストネームはこれまでに、マイヤーヴィッツ、マイヤーウィッツ、メイヤーウィッツ、マイヤウィッツ、メイエロウィッツなどと表記されたことがあり、ここに挙げただけでも、十通りの組み合わせがあることになる。書くたびに、カタカナ表記を確認せざるをえないので、いやでも記憶に刻み込まれてしまうというわけだ。

さて、『AFTERMATH』は、そのマイヤーヴィッツによる新しい写真集である。2001年9月11日の同時多発テロによる、国際貿易センター・ツインタワーの崩壊現場を訪れたマイヤーヴィッツは、「ここは犯罪現場だから撮影禁止だ」と追い出されたが、「写真がないということは、この出来事が歴史に残らないということだ」と確信し、手をつくして許可を取り、撮影を開始する。その結果、マイヤーヴィッツは、現場を継続的に撮影した唯一の写真家となり、膨大な数の写真が撮影された。そして、テロ五周年にあわせて出版されたのが、この写真集である。

『AFTERMATH』を紹介するなら、こんなふうになるだろうか。だが、このように書いてみても、どこか空々しい感じがする。

9.11という出来事は、たしかに衝撃的だった。正確に言えば、日本にいる私たちにとっては、衝撃的な情報だった。しかし、その情報にたやすく共振し、身近な出来事のように感じ、語ることには、どうしても違和感がある。

欧米の文化が次々と移入される日本では、それを身近に感じることが日常になっている。何をしゃべっているのかわからない映画を見て、映像に感動し、何を歌っているのかわからない歌詞を聴いて、音楽に感動する。作品の内容はおろか、作者名の読み方すらロクにわからなくても、良いものは良い、そのことはわかるというわけだ。だがはたして、9.11という出来事も、同じように消化してかまわないものなのだろうか。

マイヤーヴィッツによるこれまでの作品は、カラー写真による美学を追究したものだった。その彼が、さまざまな困難を乗り越えて、ツインタワーの崩壊現場を63歳という年齢から撮影しはじめ、69歳まで撮影を続けている。マイヤーヴィッツ自身がなぞらえて語っているように、その行動の背景にあるのは、かつての農業安定局によるプロジェクトのような、写真による記録である。写真による記録、記録するための写真の修辞法、そこから紡がれる文脈。こうしたものがあるからこそ、「写真で出来事を歴史に残す」というパブリックな構想も出てくる。

このような、脈々と受け継がれてきたパブリックな写真の価値は、日本にはないものである。作品は移入できても、文脈は移入できないからだ。

『AFTERMATH』は、超大判で、4キロ近くもある大冊である。だが、出来事の当事者でもなく、また文脈もわからなければ、たんなる印刷された写真の重たい塊にすぎないとも言える。

文化を移入し続けてきた日本においては、写真は知っているということを確認するメディアとして使われることが多かった。もっと簡単に言えば、要するに知ったかぶりをするための道具として、しばしば使われてきたのである。『AFTERMATH』もそのような道具として使っていいものだろうか。

読み方すらロクにわからず、名前の表記すら定まらない作者による、たんなる印刷された写真の重たい塊としての『AFTERMATH』。この途方もない違和感こそが私たちにとっての『AFTERMATH』であり、このことを受け止めなければ、見ることも知ることもはじまらないように思われる。