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[夢の書棚:ノストラダムスの大予言より恐ろしいフォトモンタージュ・木村恒久『ザ・キムラカメラ』/日本カメラ2006年10月号:213]


ザ・キムラカメラ 『ザ・キムラカメラ』は、甘酸っぱい。

この甘酸っぱさは何なのか。一言で言うのは難しい。だが、何に似ているのかは、簡単に言うことができる。歌謡曲である。同級生にはレッド・ツェッペリンが好きだと言いつつ、ほんとうはもっと好きだったキャンディーズ。『ザ・キムラカメラ』には、そんな甘酸っぱさがある。

本書に寄せられた文章に、次のような一節がある。

「読者は、どこの頁からでも楽しめばよい。何を感じとっても、隠されたメッセージを読みとるのも自由である」

ここに収められたフォトモンタージュを見ていて楽しいだろうか?

いや、楽しいというのとは、ちょっと違う。

では、自由に感じたり、読んだりできるだろうか?

いや、できない。

やさしい悪魔はシュールだが、やさしい悪魔でしかありえず、ペッパー警部にはならないように、ひかりは夢の超特急であり、都庁がない新宿はどうしようもなく副都心なのである。さらに端的に言うなら、『ザ・キムラカメラ』のタイトルの書体がいい例だろう。この書体自体がパロディになっているのだが、わかる人には一目瞭然でわかるだろうし、わからない人にはまったくわからないに違いない。

たしかに、わかる人にはわかる人の、わからない人にもそれなりの見方があるだろうが、それは当然のことであって、自由に感じることとは違う。わかる人がわからない人の見方をしたり、わからない人がわかる人の見方をしたりはできないのだから。

このことは、映像においてより顕著である。ペッパーや警部は、想像力によって多少はイメージが揺らぐだろうが、映像の場合は、あれはあれ、これはこれでしかないからだ。

木村恒久は、想像もつかないようなイメージを、フォトモンタージュによって見せてくれた。正確に言えば、想像もつかないようなイメージとは、どのようなものであるかを、映像的に具体化した。それが登場したのは、さまざまな危機が叫ばれていたが、どこか楽天的であり、まだ見ぬ未来があった時代、単純に言えば、ノストラダムスの大予言が生きていたような時代である。人類は用もないのに月に行き、車が空を飛ぶのを夢みていた。車が空を飛ぶことが今後もないことは、今では誰もが知っている。技術的には可能だろうが、コスト的に見合わないからだ。

具体化されたイメージは、すぐに想像がつくものになる。想像がつくものは、実用性と実効性のリアリズムで選り分けられ、現実化される。この現実化のリアリズムが露わにするのは、“想像もつなかいもの”の貧しさである。あれほど夢みた携帯電話ですら、実現してしまえば何ということもないものなのだ。

今日、フォトモンタージュは、より簡単に、より精緻に作れるようになったと言われている。だが、だからと言って、想像力が豊かになったわけではない。歌謡曲がニューミュージックになり、J-POPに変わっても、あいかわらず愛と明日と勇気が歌われているように、ありふれた“想像もつかない”イメージが作り出され、それが今だと思い込んでいるだけのことである。

『ザ・キムラカメラ』は、甘酸っぱいだけでなく、恐ろしい。恐ろしいのは、未来を予言したようなイメージを映像化したからではない。そうではなく、二十世紀の想像力が、このように途方もなく貧しいものであったことそれ自体を、はっきりと予言してしまっていたがゆえに恐ろしいのだ。