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[夢の書棚:壊れた過去と作られた未来・共通するのは秘密への扉か・小林伸一郎『亡骸劇場』・西澤丞『Deep Inside』/日本カメラ2006年8月号:191]


亡骸劇場 (JAPAN DEATHTOPIA SERIES) 美しいものを撮る。美しく撮る。美しさを創り出す。美しさをめぐって、さまざまな写真表現は生まれてきた。美しさを拒絶したように見える試みですら、結果的には新たな美しさの創造であった。

現在、写真の美しさについて語られることは少ない。それは、美が写真の問題でなくなったからではなく、逆に、写真が美しくあることが、当たり前になったからであろう。そんな今日、写真にとっての美、いささか古めかしい言葉でいえば、フォトジェニーはどこにあるのだろうか。

たとえば、小林伸一郎の『亡骸劇場』の写真は、多くの読者が美しいと感じるものであろう。しかし、そこで撮られているものは、壊れたもの、荒れた建築、棄てられた風景であって、いわゆる美しいものではない。では、小林が対象を美しく撮っているのかといえば、必ずしもそうではない。小林の撮り方は、どちらかといえばストレートであるからだ。したがってここでは、美しくないものが、写真となることによって美しくなるという逆説が生じている、ということになるだろう。

Deep Inside 同じような逆説は、西澤丞の『Deep Inside』にも見られる。この写真集に収められているのは、技術開発の場所や、先端技術を駆使して造られた場所である。そうした場所は、もともと人に見せることを想定していないため、美的であることには関わりがないはずである。だが、それらをストレートに捉えた写真には、独特の美しさがある。

壊れた過去のものと、造られた未来のもの。『亡骸劇場』と『Deep Inside』で写されているものは、対照的である。しかしある意味では、ひじょうに類似しているともいえる。どちらも、無人の光景のなかに、人間の痕跡がありありと浮かび上がる、近未来SF的なイメージであるからだ。類似しているのはそれだけではない。『亡骸劇場』の帯には「遠い昔に人々が去っていった場所、時間が停止した空間/それはまさに亡骸劇場」とあり、『Deep Inside』の帯には「―驚異の先端技術現場写真集―日本の先端技術はSFを超えた!!」とあるように、どちらの写真集にも、秘密めいた香りが漂っている。隠されていたもの、隠されていたわけではないが見えなかったものを、見えるようにする。これらの写真集は、秘密の発見であり、秘密への扉でもあるのだ。

美しくないものが、写真となることによって美しくなる。身近であったのに隠されていたものが、写真となることによって美しく暴かれる。こうして二つの写真集の類似を追ってみると、その特徴はまったく異なった、あるジャンルの写真にも類似していることに気づく。その写真とは、セルフ・ポートレイトである。セルフ・ポートレイトのセルフ性は、身近であることだけにあるのではない。美しくないことがセルフ性であり、それが写真となることによって美しく暴かれるという逆説こそが、セルフ・ポートレイトを独特なものにしているのである。

モダニズムのフォトジェニーが、写真のみが見出せる美しさにあったとすれば、現代のフォトジェニーは、その構造を逆説的に反転したもの、つまり、美しさが垣間見せる潜在的な秘密にあるのだろう。すると、『亡骸劇場』や『Deep Inside』は、何のセルフ・ポートレイトなのだろうか。そこにはどんな秘密が潜んでいるのだろうか。セルフ・ポートレイトが、じつは撮影者の自己を映すのではなく、それを見る者の自己を映すように、その答えは、扉の向こうにある廃墟や先端技術のイメージを覗き込む者だけに、そっと明かされるものであるに違いない。