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[夢の書棚:季節を愛で、揺らぐ時を愛しむ・今森光彦『里山のことば』/日本カメラ2006年7月号:189]


里山のことば 今森光彦の写真とエッセイによるこの本には、『里山のことば』というタイトルが付けられている。四季のうつろいを季節の呼び名で編んだ本書に、じつにふさわしいタイトルであるだけでなく、このタイトルにはとても新鮮な響きがある。というのも、"ことば"というタイトルが写真集に付けられることは、ひじょうに稀だからだ。

なぜ稀なのか。これには時代的な背景がある。60年代から70年代にかけて、従来の報道写真を批判した現代写真家たちは、過剰に言葉を嫌い、言葉にならない写真の力を探った。たとえば、フランスの文学者の「コードのないメッセージ」という写真についての一節を、ありがたく何度も引用して、写真が言葉にならない証左としたのもこの時代だった。今から考えれば、言葉になるもならないも、言葉と写真が異なるメディアであることは一目瞭然であり、また、写真が読まれる構造を分析するための一節が、逆に写真を読まないための証左とされたことは、知的な不幸と言わざるをえないが、ともあれ当時はそういう時代だったのである。

この時代の後遺症とも言うべき症候は、いまだに根強く残っている。日本の現代写真家による作品の多くには、言葉を排除することが写真であることの証であるかのように、不可解なほど言葉が省かれていることが多い。あまりに言葉がないので、いったい何の写真なのかわからない写真集ですら珍しくない。そんな風潮のなかで、言葉を活かした写真集が生まれるはずもない。それゆえ、言葉によって紡がれ、『里山のことば』というタイトルが付された本書は、新鮮であるだけでなく、画期的でもあるのだ。

あまり触れられることがないが、先の「コードのないメッセージ」という一節には、言葉と写真は異質なので、競合はするが混合しない、という前提が述べられている。たしかに欧米言語ではそうだろう。だが、日本語の場合はどうだろうか。私たちはごくふつうに、文字を読むと同時に見てはいないだろうか。おそらくは日本語の場合、言葉と写真は、競合しつつ混合する、のである。そして、この混じり合いを可能にしているのは、愛でるという、日本人独特の感覚なのではないだろうか。

「梅ヶ香」「麗か」「落椿」「早苗田」「青梅雨」「夏木立」「ゆく夏」「渋柿」「山粧う」「凍て雲」「冬野」。こうして今森が選んだ言葉のいくつかを並べて見るだけでも、季節のイメージが浮かび上がってくる。じっさいに『里山のことば』を捲っていくと、それだけにとどまらない。言葉のイメージと、写真のイメージが溶け合い、光を感じ、空気を嗅ぎ、季節の一瞬をイメージの持続のなかにしみじみと味わう感覚がよみがえってくる。季節を愛で、言葉を愛で、写真を愛で、揺らぐ時を愛しむ。愛でる、としか言いようのない感覚である。

「美しい風景は、自然の中に無数に息づく生命たちが自分たちでつくりだしているものだと思います。豊かな自然にふれる感動とよろこびを共有するために、日本には季節のことばがあります。生命の数に負けないほどの微細な宝石が、里山の中にちりばめられていることをうれしく思います」

見終えてしまうことを惜しみつつ、このあとがきを読むころには、そこに書かれていることを実感として解するようになっていることだろう。そしてそのときには、今森の仕事が、美しい里山を写真にとどめるだけのものではなく、風景と言葉と写真、そしてその関係の恢復であり、創造であることに気づくことだろう。