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[夢の書棚:マエストロの追い求めた音が立ち上がってくる・木之下晃『マエストロ・世界の音楽家』/日本カメラ2006年5月号:197]


マエストロ 世界の音楽家 木之下晃作品集 写真は瞬間の芸術だといわれる。これは、何を意味しているのか。あらためて考えてみると、よくわからない言葉ではないだろうか。写真は瞬間をとらえる芸術なのか、瞬間を表現したのが写真なのか、あるいはその両方であるのか。この二つのことは同じことであるのか、異なっているのか。そもそも瞬間とは何なのだろうか。このように考えてみると、写真は瞬間の芸術だという言葉は、禅問答のような命題でもある。だからこそ写真家たちは、この命題に取り組み、思い思いの答えを探ってきたともいえるだろう。

木之下晃は、この命題から独創的な答えを導き出した、数少ない写真家のひとりである。「音楽を映像にする」というテーマを自分自身に与えたと、彼はいう。端的にいって、このテーマは不可能である。それゆえ、多くの写真家は、こうしたテーマを隠喩としてとらえてしまう。音楽を奏でる人をとらえるとか、音楽が流れている空間をとらえるというふうに、問いを変質させてしまうのである。しかし、そのように問いを変換したとたん、じつはテーマ自体が消え去ってしまう。なぜなら、「音楽を映像にする」というテーマは時間にかかわるものであり、空間の問題ではないからである。

いうまでもなく、音楽は聴覚的なものであり、写真は視覚的なものである。音楽を見たり、写真を聴いたりはしないだろう。ところが、おそらく木之下は、音楽を見るということを考えた。音楽はどのような時間性において見ることができるのか。音楽を見ることができる瞬間というものはあるのだろうか。もちろんない。そして、ないからこそ、木之下は誰も見たことのないような瞬間を創り出したのである。木之下は若かりし頃をふりかえって、こう述べている。

「…クリエイティブすなわち前衛だと思っていたわけ。現代という時代の中で時代を動かす何かを作るということがクリエイティブであると思っていたからね」

見えているものを撮るのではなく、撮ることによって瞬間を創り出し、見るという経験そのものを塗り替えてしまうこと。「未来を予測する最良の方法は、それを創造することである」という有名な言葉になぞらえていえば、瞬間をとらえる最良の方法は、それを創造することなのである。ただ木之下だけが、不可能を可能にするこのコペルニクス的転回をなしえたのは、クリエイティブであることの真の意味を考え続けていたからに違いない。

不可能を可能にする、木之下のこうした発想の、わかりやすいエピソードがある。撮る場所がなければ、写真は撮れない。ならば、撮る場所を作ればいい。そしてじっさいに木之下は、劇場に交渉して撮影用の穴を作らせた。ひじょうに単純なことであるが、ただひとり木之下だけが、それが可能だと思い、実現したのだ。今では、穴は当然のように存在して、多くのカメラマンがそこから写真を撮っている。真の変革とは、こういうものではないだろうか。

同じことが、写真における瞬間の意味そのものの変革についてもいえるだろう。木之下の写真を見たあとでは、それが当然のように存在していたかのように思えてしまうのだが、じつはそうではない。音楽の写真には、明確に木之下以前と木之下以後があり、写真を見るという経験にも、明確に木之下以前と木之下以後がある。

ところで、この仕事の偉大さを知るには、ここまで述べてきたようなことを考える必要はまったくない。途方もなく美しい写真集『マエストロ―世界の音楽家―』を、ただ開けばいい。そこには、終わることのない至福の瞬間、それを味わったあとでは、音楽の聴こえ方そのものが変わってしまうような至福の経験がある。