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[夢の書棚:パラドックスを抱えた植田正治の写真の魅力とは・『植田正治写真集・吹き抜ける風』/日本カメラ2006年4月号:213]


植田正治写真集:吹き抜ける風 植田正治の写真には、時代を超えた魅力がある。どの時代の作品であっても新鮮で、いつの時代に見ても惹かれる何かがある。しかし、その作風が脱時代的かといえば、そうではない。植田のスタイルは、教科書的といっていいほど、1920~30年代のモダニズムのものである。典型的なモダニズムのスタイルが、他方では超時代的・脱時代的に見える。植田の写真が、どこか謎めいている理由は、このパラドックスにあるように思う。

この不思議なねじれは、何に由来するのだろうか。写真集『吹き抜ける風』に収められた、「僕たちはいつも植田正治が必要なんだ!」という文章で、金子隆一は植田の「生涯アマチュア写真家」という態度について、こう述べている。

〈植田にとって「アマチュア」という存在は、決して「プロ」と対立するものとしてあるのではない。「アマチュア」とは、なにものにもとらわれずに自由に写真と対する絶対的な態度のことであって、決して社会的な存在としてあるわけではない。そして植田にとって「写真」とは、なによりも「する」ことなのである。…写真そのものと純粋にたわむれ、写真を撮る存在までもがそこに同化してしまうような植田の態度は、近代的写真表現が社会的なメディアとして大きく位置づけるなかで趣味的なものとして周縁へと押しやってしまったものではないだろうか〉

プロではなく、社会的ではなく、ただただ写真と同化するアマチュアという存在。しかしじっさいに、そのような存在がありうるのだろうか。近代に生まれた写真は、もともと時代的・社会的なメディアである。そして、アマチュアもまた、近代の産物にほかならない。そもそも近代という時代・社会が、写真を趣味とするような領域を周縁に生んだのであって、別に押しやったわけではない。

周縁を評価することによって、中心を批判するというのも、ごくありふれた近代のシステムである。近代批判がなければ、近代化されることもない。とりわけ日本のように、近代を移入した国では、強力な近代批判の原理を求める傾向がある。何者でもない絶対的に純粋で自由なアマチュアとしての植田が必要とされたのも、そうした原理としてではなかっただろうか。金子の次のような文章は、そのことを端的に示しているように思える。

〈私たちにとって必要なのは、植田のように「写真」を持ちそして写真とはいったいなんなのであろうかという問いかけを持ちつづけることができるかということなのではないだろうか。写真を撮ることも写真を見ることもまた写真について考えることも、私たちは「写真する」ことにできるのであろうか〉

写真を持ち、写真する。この言葉は、日本語としてほとんど意味をなしてない。もちろん外国語でもないが、奇妙な訳語のような語感がある。ただたんに写真を愉しむという趣味が、近代を超克するためのイデオロギーへと転化されていく窮屈さ、必要なんだ!とアジテートされてしまう不幸が、この奇妙な日本語に凝縮されてはいないだろうか。

私は、植田正治の写真がたまらなく好きだ。たんに写真を愉しんでいた植田は、そのことをたんに「写真するボク」と言った。そんな植田の写真を見ていると、写真を撮ることも愉しくなってくる。だから好きなのだ。写真を持ったりしたいから好きなわけではない。

植田の写真のモダニズムは、近代批判などする必要がないくらい、したがって必要とされることも必要としないくらい、はじめから成熟していた。もし謎があるとしたら、パラドックスを両立する洗練と成熟を可能にした、この才能であろう。だからこの謎は、問いかけるようなたぐいのものではなく、憧れるようなたぐいのものなのだ、と私は思う。