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[夢の書棚:写真家と被写体の自由で親密な関係が生みだす「神話」・『one2one』/日本カメラ2006年3月号:197]


ずっしりと重い大判の写真集『one2one』に登場するのは、ドリュー・バリモア、ナオミ・ワッツ、ジョージ・クルーニー、クロエ・セヴィニー、サルマ・ハエック、シャーリーズ・セロン、ビル・クリントン、ニコール・キッドマンといった、そうそうたるセレブたち。それぞれのパートには、撮影された人物と写真家のコメントと回想が添えられ、タイトルにあるように一対一の関係が強調される構成になっている。なぜ、こうした構成になっているのか。序文では次のように述べられている。

「one2oneは、写真家がその独創性を自由に発揮するのを認められて撮影した時、何が起きるかという、一種の信条表明のようなものです。また、印象的な写真を創造するため集まった関係者全員の間に生まれる信頼についての描写でもあります。このような信頼関係は長年にわたって仕事をした結果生まれたり、また瞬時に結ばれたりもします。非凡な才能の写真家と彼らが撮影する人物の間に生じるもっとも意味のある信頼関係です」

写真家の独創性、そして被写体との信頼関係によって素晴らしい写真が生まれる。これ自体は、これまでにも幾度も語られてきた、ありふれた写真の神話でもある。しかし、そのありふれた話が、なぜあえてこの写真集の主題になっているのか、その理由は興味深い。近年では、リスクを避けようとする雑誌の方針や広報のコントロールによって、撮影の制限が厳しくなっており、写真家が自由に撮ることが難しくなっている。そうした制限がないからこそ、このように素晴らしいイメージが作られるのであり、それは誰にとってもメリットがあることなのだ、と言うのである。

もうひとつ興味深いのは、流通する無数のイメージのなかで、ポップカルチャーの決定的瞬間を捉えたイコンとしての写真が生まれるのは、写真家と被写体の自由で親密な関係があるからこそだ、と述べられていることである。二十世紀の後半からアメリカ発のポップカルチャーは影響力を増しつづけ、今や世界中を覆いつつある。そこで写真が果たした役割も大きい。既成の文化にはない自由な発想を競い合ってきたポップカルチャーが今、絶大な影響力を持ったことで、自らを規制し制限するようになってきたという逆説が、ここにはある。

写真家はつねに何かを撮る。では、撮るものと撮られるものの間にある写真をコントロールする権利は誰にあるのか。あらためて考えてみるとこれは、なかなか難しい問題であり、またじつは、古くから論じらている問題でもある。たとえば、写真が大衆化した初期には、撮られるものの許可が必要なのかという議論が起こり、当時の裁判所は不要と判断したと言われている。もし逆の判断がなされていたら、イコンとしての写真はおろか、今日のようなポップカルチャーの全盛そのものがなかったもしれない。

撮るものの権利が増せば、撮られるものも権利を主張する。逆もまた然り。ごくごく単純に言えば、その力学関係のなかで写真は撮られてきた。今日、この力学関係における緊張は、一流写真家とセレブの間だけでなく、一般の写真愛好家にまで及んでいる気配もある。じっさい、街角でスナップするのに、ちょっと躊躇してしまうような時も少なくない。しかも、一般の写真愛好家のスナップの場合は、誰にとってもメリットがあるとは言い切れないだけに、判断はより難しいに違いない。曖昧な言い方になるが、おそらくは、緊張がむやみに高まることがなく、適度な関係に落ちついている状態が、もっとも好ましいのだろう。

『one2one』は、撮るものと撮られるものの関係に一石を投じ、緊張を緩める役割を果たすだろうか。そう考えると、華やかに見える本書が投げかけている問題は、思いのほか身近なものでもあるように思えるのである。