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[夢の書棚:100年前の夏目漱石も見たロンドン・ジョージ・ヘンリー バーチ・出口保夫 (訳)『よみがえるロンドン・100年前の風景』/日本カメラ2006年2月号:197]


写真集 よみがえるロンドン 100年前の風景 『よみがえるロンドン』は、1896年頃に撮影され、1900年に刊行された『The Descriptive Album of London』に、解説などを加えて復刻した写真集である。本書を開くと、そこには百年以上前のロンドンの写真が、百点を超えるボリュームで収められている。こうしてまとまった形で、百年前の写真を見ることができるのは、考えてみれば驚くべき経験ではないだろうか。

写真が発明されたのは160年以上前。したがって、百年前の人々が、さらに百年前の写真を見るということはありえない。百年前の写真を見るということは、ごく近年になってようやく可能になった経験なのである。百年前の写真を今日見るためには、写真が発明されていればよいというわけではない。まず写真が撮影されていなければならないし、その写真が今日まで残っていなければならない。ただ物理的に残っていればよいというわけでもない。精神的な意味でもその写真が価値あるものでなければ、今日それを興味深く見ることはできないだろう。『よみがえるロンドン』を見ることの驚き、それは、こういったことのすべてを満たしている写真を見ることの驚きである。編訳者の出口保夫は、こう述べている。

「二十一世紀の今日、百年前のロンドンの風景をこのように再現してみると、単なる過去の写真ではなく、それらは文句なしに今日に甦り、悠久の都市としての姿を表象しているように思う。ここに収められている一〇五枚のロンドンの風景には、すでに取り壊された建築物もあるが、その数は決して多くはない。比較の意味で、百年前の東京の風景写真を考えてみるがよい。いったい百年昔の東京の建築物で、今なお美しく存在している例がどれだけあるだろう。これは木材と石や煉瓦の建築材料の違いとか、ロンドンでは地震のような自然災害がほとんどないという事実だけでなく、もっと根本的な都市構造ないしはその景観美にかかわる問題かもしれない」

例えば、本書には、夏目漱石が留学中の経験をもとに「倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである」と書いた『倫敦塔』のモチーフ、「ロンドン塔」の写真がある。そのロンドン塔を眺めた「タワー橋」、講義に出た「ユニヴァシティ・コレッジ」、訪問したカーライル博物館がある「チェイニー散歩道」、自転車で訪れた「バタシー公園」といった写真もある。そしてそれらの写真は、百年前のものでありながら、いささかも古びておらず、今日との連続性が確かに感じられるものである。翻って、漱石が書いた時代の東京はどうか。出口が指摘するように、百年前の東京の写真があったにしても、そこに写っているものと今日との連続性は、ひじょうに乏しいに違いない。百年前どころか、50年前、いや10年前と今日の連続性ですら、あやしいものだろう。

このような連続性とは、いうまでもなく歴史の産物であり、歴史を形作りつつ自らを歴史に刻んできた都市や建築の産物である。写真がフランスとイギリスで競われて発明されたのは偶然ではないだろう。そうした国において、写真と都市や建築はほとんど等価であり、発明された写真が都市や建築を定着したというよりは、都市や建築が自らを歴史に刻むために写真を生んだような感がある。イギリスの歴史を煎じ詰めたロンドン塔は、写真になることによって、イギリスの歴史を自らに封じ込め、今日に生き続ける。何という歴史への欲望、何という強固な連続性。

今日では世界のあらゆる都市で、百年前とは比べものにならない量の写真が撮られている。百年後には、どんな精神が受けつがれ、どんな写真が残っているのだろうか、ロンドンの写真はなおも残っているだろうか。百年後の人々は、現在の写真をいったいどのように見るのだろうか。