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[書評:過剰なまでの優雅な輝き・金村修『In-between 12 Germany, Finland』/日本カメラ2006年2月号:199]


In-between 12 金村修 ドイツ、フィンランド 本書は、金村修がはじめて本格的に海外で撮りおろした写真集だという。だが、巻末の文章には次のように書かれている。

「この写真集のドイツやフィンランドという国名の被写体も、実体として存在するドイツやフィンランドを再現したという事ではありません」

本書に収められた黒々とした写真を見て、これこそがドイツやフィンランドの再現だとは誰も思わないだろう。そもそもドイツやフィンランドとはカタカナで書かれた国名であり、それ以上でもそれ以下でもないのは自明のことだろう。にもかかわらず、いささか唐突に、実体の再現ではないとあえて書かれているのはなぜだろう。

この文章のはじまりは、さらに唐突で、「写真には写真を成立させる決定的な原因が存在するのでしょうか」という、問いかけとも、独白ともつかないものである。問われてもいないのに、例えば次のように、写真の成立について執拗に語り続ける金村は、いったい何を言おうとしているのだろうか。

「写真を成立させる特定の原因/本質は存在しないと思います。写真は全ての要素の関係において存在するのであり、実体的に独立した一つ一つの要素の集合で成り立つのではなく、ただその関係においてのみ成立するのであり、諸要素は関係においてのみ諸要素として認識されるものだと思います」

写真は関係において成立する。これは、疑いようもなく正しい。なぜなら写真だろうが、人間だろうが、うんこだろうが、どんなものでも関係において成り立っているからである。それゆえ、この正しさは空虚である。なぜなら何も言っていないに等しいからだ。

写真がいかにして写真として成立するか。カルトはこれを問いかけ、作家はこれをひとりごちる。問いかけ、ひとりごち、自己憐憫にひたるカルトな作家も少なくない。しかし、おそらくはもっとも先鋭的かつ聡明な現代写真家である金村は、問いかけることも、ひとりごちることもなく、何も言っていないことを語る。空虚から紡がれるこの写真のような言葉は、言葉のように黒々とした写真に、過剰なまでの優雅な輝きをあたえている。