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[夢の書棚:神話のような豊饒な物語を秘めた一冊・佐藤治夫・大下孝一『ニッコール千夜一夜物語』/日本カメラ2006年1月号:197]


ニッコール千夜一夜物語レンズ設計者の哲学と美学 (クラシックカメラ選書)  小学校時代の通学路に、質流れの店があった。通りに面したショーウィンドウのなかに収められていたのは、宝飾品、腕時計、そしてカメラと交換レンズたち。どこから流れてきたのか素性が知れぬそれらのものたちは、どこかいかがわしく、だからこそ魅惑的だった。恐る恐る歩調を緩めながらウィンドウのなかを覗き、そしてちょっとだけ足を止めるようになり、子供が覗いていても怒られないことがわかると、時間をかけてじっくりと見るようになった。宝飾品には関心がなく、腕時計もけっきょくは時計でしかないのですぐに見飽きてしまったが、見れば見るほど謎めいてきたのが、ウィンドウの下段を埋めつくした交換レンズたちである。

男の子というのは、合体するメカが大好きなものである。あれとこれが合わさって、パワーアップしたり、別の機能を発揮したりするのがたまらない。あのカメラにこのレンズがくっつくと、どんなふうになるのだろうと想像するだけで、わくわくしてくる。しかも交換レンズには、20・58・105とか1.2・2.8・3.5といった半端な数字がたくさん刻印してあり、暗号のようなそれらの数字を読み解くことができるようになれば、きっとこの不思議な交換レンズの世界の謎も解けるのだろうと空想したものだった。そうしたウィンドウ下段の世界のなかには、ひときわ異彩を放っていた一角があった。陳列の仕方も、値段も、存在感も違う。その一角は、NIKKORという文字が刻印されているレンズたちのための、特別のスペースだった。

『ニッコール千夜一夜物語』は、子供のときの空想が、あながちまったくの的外れではなく、それどころかNIKKORという文字とともに刻まれた暗号のような数字には、神話のような豊饒な物語が眠っていたことを教えてくれる、嬉しい一冊である。

例えば、20mmというレンズは、かつて28mm・25mm・21mmであったラインアップを、28mm・24mm・20mmというバランスのいい焦点距離差にするために生まれ、たった1mm焦点距離を短くするには大変な困難があり、小型化されるためにはさらに世界的な発明が必要だった。また、Noct-NIKKOR(ノクトニッコール)というNocturne(夜想曲)からとられた名前が冠された58mmF1.2Sというレンズの開発は、サジッタル・コマフレアとの格闘であり、レンズが夜想曲を奏でるために採用されたのは非球面レンズの製作という超絶技巧であった。ノクトの技巧は、十年もの開発期間がかかったという28mmF1.4Dに受け継がれ、この大口径広角レンズは流星を捉えるための銘レンズとなった。

同書にはこうした興味深い逸話の数々のほかに、逸話を彩るサブエピソードも収められている。なかでも印象的なのは、昔は光線追跡をするために、女性たちが二人一組でソロバンを弾いており、十本の光線なら二十人といった具合に、数十人の女性たちが計算に従事していたという話だ。現在はもちろんコンピュータに取って代わられた仕事だが、その源流には女性たちの繊細な指があったのである。

レンズを通った光が乳剤へと届く道筋は、設計者の神業によって描かれ、女性たちの繊細な指に導かれたものであり、レンズに刻まれた数字はその結晶であったのだ。そう想うと、交換レンズがかくも私たちを魅了してやまない理由が、少しはわかる気がしないだろうか。