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[書評:洗練された身体性にとらえられた日常なるもの・原美樹子『Hara Mikiko』/日本カメラ2006年1月号:199]


写真集の白い表紙には「Hara Mikiko」というブルーの文字が箔押しされている。巻末にはごく短い作者のプロフィールと奥付が記されており、それ以外の文字はいっさい入っていない。

微妙に傾いた画面、揺れるフォーカス、交錯する近景と遠景、あいまいなしぐさ、人、動物、花、空、色、光。ありふれているように見えながら、不思議なリアリティがある光景。じっさい原美樹子の写真は、何気ない日常を捉えたスナップショットと形容されることが多い。

ところで、この日常とは、あるいは日常を撮るとは、どのようなもの/ことなのだろうか。日常とは、字義通りにいえば、ありふれた平凡なものごとである。だが、写真表現においては必ずしもそうではない。1960年代から今日にいたるまで、日常はすぐれて現代的なモチーフであり続け、洗練を重ねてきた。写真表現における日常とは、一種の専門用語であり、専門分野であるといってもいい。

何気ない日常を捉えることのもっとも難しいところは、何気なく日常を捉えることである。写真を撮ることは、ましてやそれを作品化することは、何気ない日常の行為ではありえないし、何気なく日常的に写真を撮っているとしたら、それはもはや日常とは呼べないだろう。何気なく何気ない日常を捉えることは不可能であり、それゆえに不可能を身体に埋め込むような洗練を要する。

こうした極度に洗練された身体性によって捉えられた日常なるものは、言葉では語りえない。しかしだからといって、非言語的なわけではない。語ることがつねに語られていないことを呼び起こすように、語りえないものこそが雄弁に言葉のかたちを浮き彫りにするのである。

表紙に刻まれた「Hara Mikiko」という文字は、一方で作者の固有名を、他方でそれ以外のすべてを物語る。洗練された身体性に見る者が共振したとき、無限に広がる世界への扉が開かれるだろう。