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[BOOK REVIEW:生きることが昨日と今日の命題であり、団らんなど無縁に40数年がたった未帰還「皇国兵士」・三留理男『望郷』/日本カメラ2005年12月号:189]


「望郷」皇軍兵士いまだ帰還せず (復刻版)  戦後もアジア各地で生活している元日本兵、日本軍に徴用されたアジア各国の人々、帝国軍人として戦地に赴いた台湾の人々を取材した、三留理男の『望郷―皇軍兵士いまだ帰還せず』が復刻された。原本の出版は1988年、それから現在までの17年間の間に、本書に登場している未帰還兵の半分以上が他界していると、復刻版あとがきには記されている。

 生物学的解決という言葉がある。問題の解決が長引く間に、当事者が死亡し問題が解消されてしまうことを指す言葉だ。三留の取材がなければ、未帰還兵たちの話もまた時間の流れとともに消えていってしまったであろうことを考えると、この本がひじょうに貴重なものであることがわかる。

 戦場にいるにもかかわらず、ある日突然終わった戦争によって、投げ出されるようにして別の生き方を強いられる。それが、本書に登場する人々の人生である。例えば、けっきょく中止になった40年の東京オリンピックを見物に来た、ブラジル生まれの日系二世の男は、ブラジルに23年暮らし、日本にいたのはたった1年程度、その後は戦争によって大陸を経由してタイ、ビルマで生きることになった。こうした人々の人生について、三留はまえがきで、こう述べている。

 「…彼らに共通していることがひとつあった。それは、彼らの戦争は今もなお終わっていないことである。現在の彼らの生活は、まぎれもなく戦争に束縛されているし、砲弾の飛びかっていたあのときを、つい昨日のように覚えているのである。…そして、日本国からの、どのような種類の保護を受けることもなく、誰の助けも借りず、言葉も習慣も、生活様式も異なる国で彼らは生きていた。なによりもまず、生きることが昨日と今日の命題であり、団欒とか潤いということと無縁のまま、四十数年が経っている」

 軍に置き去りにされたことによってタイで生きることになり、旧日本軍の敗走路の遺骨を集め続けている男の次のような言葉は、戦争と連続した時間を生きる彼らと、切断された時間を生きる日本人との隔たりを、よく物語っているように思える。

 「日本人、みんな変わっちまった。家に帰ればコーヒー飲んで、かあちゃん抱いて、ニヤっと笑っとるだけだ。そうでしょう。そんなもんや」

 だが、ニヤっと笑っているだけの男の人生も、楽なだけではあるまい。部下に陰口を叩かれながら上司のご機嫌をとり、下心を悟られないように可愛い娘になけなしの小遣いでランチを奢り、枯れた夢で社会を皮肉りそれなりの格好をつけ、ろくに会話もなくなった家族と苦いコーヒーを飲む、つじつまの合わない日々にも苦労はある。そんな男でも、切実な人生を生きていることには変わりがないといえば、変わりがない。では、何が違っているのだろうか。

 戦争と切断された日本人は、生きることが永遠に続くかのような時間に溶け込み、永遠に生きるためになら、つじつまの合わないことも平気で見て見ぬ振りをするようになった。これは、同じ生きるために生きることであっても、本書に登場する人々の「生きることが昨日と今日の命題」である切実さとは根底的に異なっている。前者にとっての死は無限に遠く、後者にとっての死は無限に近い。前者は投げ出されることに怯えつつ群れに紛れて生き、国から投げ出された後者はたったひとりで生きることを切りひらいてきた。

 しかし、永遠の生というのは、いうまでもなく幻想である。投げ出された者を見て見ぬ振りをする社会では、いつかは己も投げ出される日がやってくる。非連続な時間を代償に手に入れた、永遠の生という幻想には、緩慢な生物学的解決という未来が刻まれているのかもしれない。