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[BOOK REVIEW:私と写真と世界を結びつける魔法のような現実は、今どこにあるのだろうか・新倉孝雄『私の写真術』/日本カメラ2005年11月号:197]


私の写真術―コンポラ写真ってなに? (写真叢書)  かつて、「コンポラ写真」と呼ばれた潮流があった。この言葉は、アメリカの「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」という展覧会がもとになっていると言われている。コンテンポラリー(Contemporary)という語が、同時代、現代といった意味であることを考えると、「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」というタイトルは、「今日の写真家たち」といった程度の意味であり、したがって、ほとんど何も言っていないようなタイトルである。じっさい例えば、現在でも使われているコンテンポラリー・アートという言葉は、近代以降から現在進行中のアートまでという、便宜的な時代の区切りを指すものであり、それ以上でも以下でもない。

 しかし、ある時代の潮流であった「コンポラ写真」は、「今日の写真」という意味におさまるものではないだろう。それは、「アングラ」「リストラ」「セクハラ」といった和製英略語のように、もとの言葉と関係ないわけではないが、別の意味を担うようになった言葉なのだろう。では、「コンポラ写真」とは何なのだろうか。乱暴にひとことでまとめるなら、何でもないものを何でもなく撮った何でもない写真であるところに何かある写真である。もちろん当事者たちは、こうしたまとめ方に頷くことはないに違いない。例えば、『私の写真術―コンポラ写真って何?』のなかで新倉孝雄は、こう言っている。

 “私が「コンポラ派」だとみんなに思われていたことはたしかだけど、私自身は、「コンポラ」についての知識はまったくなかったんです。…先入観や過剰な期待を抱かず、現実を素直に感じ取ることだけです”

 先入観を捨て現実を見るというのは、いわゆる現象学的な方法である。現象学的な方法から生まれた「コンポラ写真」が潮流を形作ったとしても、潮流や何々派といった括りこそは先入観そのものなのだから、当事者たちがそれに属すると考えるはずはない。『私の写真術―コンポラ写真って何?』というタイトルから率直に想像すると、この本には、「コンポラ写真」の写真術が書かれているように思われるだろう。だが、じっさいにはそうではない。諸々の経験が記された文章が、ただただ、たんたんと編まれているのみである。重要なのは、〈私〉が感じ取った独特の経験であり、また経験こそが〈私〉を独特たらしめているのであり、その関係こそが写真〈術〉なのだろう。

 「コンポラ写真」は、日常のありふれた事物を撮ったと言われている。しかし、それは正確ではない。私と写真と現実の関係が重要だということは、現象学がコップから世界を語れるように、「コンポラ写真」の日常もまた、ありふれているからこそ世界に通じているのである。WTC崩壊の同時多発テロに衝撃を受け、一方的に発信される映像に対して、“このときほど静止を続ける「写真」のもつ本来の記録性、力強さが再認識させられたことはない”と述べる新倉は、現在の写真表現について唐突に次のように続けている。

 “いまわれわれの周りにまとわりつく写真の風潮は、家族や恋人、親しい友人たちとの関わりを身近に写しとるという、押し付けがましいプライベートな告白で、「私はこうなの」「見て、見て」と、軟弱な自己内省への戯れに埋没して、写真本来の命である表現に勘違いが交錯している”

 かつて「コンポラ写真」が、何を撮っているのかわからない日常の写真と言われたことを考えると、この一節はいささか手厳しすぎるようにも思われる。いや、だからこそ手厳しいと言うべきか。だが、そんなことよりも興味深いのは、WTC崩壊という大きな出来事と、周りの写真の風潮という小さな出来事が、新倉の現実のなかでは、流れるようにひとつに結びついていることである。

 「コンポラ写真」と呼ばれた同時代。それは、かつて、あった。同時代(コンテンポラリー)と呼ばれる現代は、今もある。では、私と写真と世界を結びつける魔法のような現実は、今どこにあるのだろうか。あるいは、そうした現実そのものが、「コンポラ写真」の夢だったのだろううか。