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[書評:自虐的な笑いを反転させようとする笑いと、人間を肯定しようとするモダンな信念が満ちている・大倉舜二『Tokyo Freedom』/日本カメラ2005年10月号:197]


Tokyo Freedom―大倉舜二写真集  大倉舜二の『Tokyo Freedom』に収められた写真は、どこか戯画的である。戯画的なシーンを撮っているのだから当たり前のようにも思えるが、そうではない。抱擁するカップルの姿は、ロベール・ドアノーの写真のようでもあるし、路上を歩く若者、ベンチで昼寝するサラリーマンの姿は、ロバート・ロンゴの作品のようでもある。だが、そうしたシーンを捉えた大倉の写真には、ドアノーやロンゴの作品のような色気がどこにもない。人々はただひたすら格好悪く、その格好悪さを諦めているような自虐的な虚ろさだけが漂っている。

 おそらく、同じシーンを撮っても、虚ろでまったりとしたスタイルの写真であれば、人々はそれなりに格好良く写るだろうし、これほど戯画的になることはないだろう。しかし、写真の統辞法に通暁した大倉のモダンなカメラワークは、人々からもはやモダンな骨組みが溶解してしまっていることを浮かび上がらせるのである。

 大倉はこう述べている。「とうの昔に日本国家は破産している。無論、企業も金融も全てのシステムが腐敗している。…ごく近い将来、何人も逃れられない災難が襲わぬように祈る」。こうした諦念を語る他方、次のようにも言う。「眼にしたものを信じ、それを組み立てる余裕が私にはできていたので、それが少しの笑いと救いになっていれば幸いだ」

 モダンな視点から見ると、どうして日本人は格好悪いのか。端的に言えば、ニヒリズムという名のヒロイズムに浸っているからである。表立っては自虐的に笑いつつ、陰では不満をブーブー垂れ流し、形あるものをすべて骨抜きにすることだけに情熱を注ぐ。こんな不気味な談合社会に生きることが格好良いはずがない。

 だが、格好良くなくても、戯画的であっても人は生きる。大倉が、呪いにも似た災難への警告を発しつつも、笑いと救いを語るのは、『Tokyo Freedom』の根底には、自虐的な笑いを反転させようとする構築的な笑いと、人間を肯定しようとするモダンな信念が満ちているからであるように思われる。