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[BOOK REVIEW:終わりなき形式化の反復に身を置くことこそ先鋭的な表現である・土田ヒロミ『新・砂を数える』/日本カメラ2005年10月号:195]


新・砂を数える―土田ヒロミ写真集  表現の世界では、上手いものが、すなわち良い作品になるとは限らない。上手いだけで何か足りない、と言われたりする。現代表現の世界ではなおさらで、上手いものすなわち形にはまった作品とみなされ、悪い作品の典型のような言い方をされることすらある。

 写真の世界でこのような価値観が一般的になったのは、スナップショットという技法の登場以降のことであろう。撮影者自身も動きながら、動く被写体を捉えるスナップショットは、偶然性を取り込む技法として、60年代から70年代のカウンターカルチャーのなかで注目され、現代写真のメインストリームを形作るようになる。

 この潮流は、人々の感受性をも塗りかえた。今日では、ごく一般的な人が撮る写真ですら、直立不動の記念写真などはほとんどなくなり、偶然の瞬間を捉えたものが好まれるようになっている。撮る方も撮られる方も、写真は止まって写すものではなく、動きながら写すものになったのである。この変化は、改めて意識されることはほとんどないだろう。そのくらい根底的かつ大きな変化であったのだ。

 では、スナップショットは、写真を偶然に満ちた自由なものへ解放したのだろうか。人間の感覚というのは不思議なもので、何かに習熟すると、ひじょうに高い精度で行為を反復できるようになる。多少なりとも写真を撮ることに慣れ親しんだ人なら、まったく違う場所で撮影しているのに、以前撮った写真と寸分違わない構図の写真が撮れてしまって、驚いた経験があるのではないだろうか。形があるから、それにはまってしまうのではない。形があろうとなかろうと、人間の感覚は形を動的に生成していくのである。スナップショットという技法が露わにしたのは、偶然や自由といったものではなく、頭からつま先まで無意識的に形式化された身体の在りようだった。

 土田ヒロミの『新・砂を数える』は、1995年から2004年にかけて撮影されたカラーのスナップショットに、1976年から1989年にかけて撮影されたモノクロームのスナップショット『砂を数える』を併せて編んだ写真集である。写真による卓越した日本論、社会論、群衆論などとして見ることができるのはもちろんだが、スナップショットにおける形式化の問題の実践として見たときに、もっとも興味深いように思われる。というのも、ひとつには、撮影の量を伴いつつ、これだけの長き間にわたって試みられているスナップショットの実践は類例がないからだ。そしてもうひとつは、新しいカラーのシリーズではデジタルプロセスが取り入れられているが、そのことによって形式化の問題が乗り超えられているわけではないということである。デジタルは自由に画像を操作できると言われるが、形式化された身体にとって、そんな自由は取るに足らないということを、『新・砂を数える』は明らかにしている。

 現代表現では、何々を超えてというフレーズがよく使われるが、超えた先に何があるのかが語られることはない。超えたいという願望だけで乗り超えられるわけではなく、たとえ乗り超えたと思い込んだところで、せいぜい物自体や自分自身といった月並みな幻影を見出すにすぎない。現代の表現にとってもっとも先鋭的なのは、逆説的にも、何かを乗り超えようとすることではなく、終わりなき形式化の反復に身を置くことなのである。

 『砂を数える』シリーズをはじめたとき、土田がこのようなことを考え、今日までの展開を見こしていたわけでは、むろんないだろう。しかし、終わりなき形式化の反復にこれほど似合うタイトルはほかにあるまい。このタイトルが選ばれたのも、形式化された無意識のなせる技なのか、あるいは、これこそは偶然なのだろうか。もし偶然だとしたら、今や形式化の問題の極北にあるこの偶然は、宿命と呼ばれるものに酷似している。