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[BOOK REVIEW:デジタル的な欲望に支えられている復刻という作業『国書刊行会・日本写真史の至宝』/日本カメラ2005年9月号:202]


安井仲治写真作品集 (日本写真史の至宝) 初夏神経 (日本写真史の至宝)

 日本近代写真の名作写真集を復刻したシリーズ、「日本写真史の至宝」の刊行がはじまった。すでに配本されている『安井仲治写真作品集』と小石清『初夏神経』を見るかぎり、丁寧で緻密な復刻作業がなされており、3万5千円(税別)という価格もけっして高くない、見事なできばえであるように思われる。

 思われる、というのは、ポートフォリオ形式の『安井仲治写真作品集』は、1942年に制作された限定50部の非売品、ジンク板が表紙の特殊な装丁の『初夏神経』は、1933年に制作された部数不明の限定版であり、そもそもオリジナル版を見る機会がほんとどない以上、簡単に比較できるものでもないからである。

 だが、仮にオリジナル版が手元にあったとしても、やはり比較は難しいに違いない。写真集もまた物である以上、経年とともに劣化する。6、70年も経っている写真集が、もともとはどのような物だったのかということは、正確には誰にもわからないのではないだろうか。

 私たちは、経年による劣化を含めて古い物を味わっていることが多い。復刻版を見るとき、どこか奇妙な感じがするのは、それがどれほど精密にオリジナルを再現していようと、経年による劣化がすっぽりと抜け落ちているからである。しかし、逆にいうと、どのような物であれ、当然ながらはじめは新品だった。ということは、古い物の味わいの大部分は、経年による劣化が思い起こさせる歴史によるものなのかもしれない。

 古い物が、時の流れとともに劣化し、いつかは喪われていくのは自然なことである。と同時に、喪われていくことを惜しみ、少しでも長く残したいという感情もまた、自然なものだろう。本や写真といった複製技術は、そうした感情から生まれ普及したと考えることもできる。

 そして、複製技術は進化を重ね、いまデジタル時代を迎えている。デジタルによる複製は、経年によって劣化せず、理論的には永久に保存可能だといわれている。例えば、退色した写真というものはなくなり、いまの子供たちは将来、まったく劣化していない子供時代の写真を見ることになるのである。

 いや、そんな例をあげなくても、私たちはすでに身近にデジタル時代を経験している。DVD化された最近の映画なら、スクラッチやゴミを見ることはない。CDが廃盤になり、本が絶版になるサイクルは早くなったが、需要さえあれば、形を変えてすぐに再発売されるようにもなった。ここではオリジナル版という概念そのものが消えつつある。いずれ、経年による劣化が思い起こさせる歴史というもの自体も、20世紀の想い出となっていくのだろう。

 もともと複製物である本を再び複製する復刻という作業は、古典的にみえて、じつはデジタル的な欲望に支えられているともいえる。復刻版がどこか奇妙な感じがするのは、経年による劣化がないからというだけではなく、その真新しさのなかに、デジタル的な欲望と、職人的な作業が共存しているからなのかもしれない。まさにこの共存を体現した「日本写真史の至宝」は、写真史という物語のみならず、20世紀という時代をも物語っているように思える。