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[書評:見ること・語ることの可能性と不可能性を正面から検証した・鈴城雅文『原爆=写真論』/日本カメラ2005年8月号:218]


原爆=写真論―「網膜の戦争」をめぐって  鈴城雅文の『原爆=写真論』は、山田精三、山端庸介、土門拳、東松照明、石黒健治、土田ヒロミといった写真家によるヒロシマの写真を通して、見ること・語ることの可能性と不可能性を正面から検証した、稀有な論考である。もつれた糸をほぐすかのように展開される挑発的かつ精密な読解は、ヒロシマの写真の見取り図として秀逸なだけでなく、写真と現代を考えるうえで非常に示唆に富む。端的に言えば本書は、ヒロシマの写真を歴史的に位置づけた解説ではなく、今日という同時代にヒロシマの写真の歴史を位置づけた批評なのである。それゆえ鈴城は、ヒロシマの写真と今日性を、次のように接近させている。

 「被爆という『記憶』を無媒介に公/正義の場に繋ぐ精神と、〈私性〉の繭に包まりまなざしを閉ざす精神は、ともに呪われた方がいい」「『不可能』に当面しつつ立ちつくし、もはや大義も私性も瓦解するだろうそこで、足下を踏み抜くという〈野蛮〉が召喚されているのだ」

 このように批判しようがしまいが、大義や私性はやすやすと生きのびるだろう。というのは、大義や私性が無根拠に根拠としているものもまた、不可能性というイデオロギーであり、野蛮というファンタジーだからだ。鈴城の呪いは、大義や私性というロマンとトポロジカルな関係にあり、呪いによって召喚されるのは、逆説的にも大義や私性にほかならない。そしてじつは、本書の真価はこうした逆説的な構造にこそある、と私は思う。なぜなら、すぐれた批評というものは、語るという形態のうちに同時代を体現するものであり、鈴城はこの逆説において、同時代を体現するにとどまらず、同時代を「踏み抜いて」いるからである。