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[BOOK REVIEW:伝統の創刊号がミニチュアでついた『PLAYBOY 7月号』/日本カメラ2005年8月号:216]


PLAYBOY (プレイボーイ) 日本版 2005年 07月号  「ヘアヌード」という言葉がある。直訳すれば「毛の裸像」とでもなるのだろうか。もちろん、そもそも「hair nude」などという珍妙な英語はなく、「ヘアヌード」というのは典型的な和製英語なので、直訳も何もないのだが。

 説明するまでもないだろうが、「ヘアヌード」という言葉は、陰毛が写っているヌードの映像を指して使われた言葉である。最近この言葉がほとんど死語と化しているのは、べつにそれが珍しくなくなったからだろう。珍しくなくなったということは、珍しかった時代もあったわけである。

 30周年を迎えた日本版『PLAYBOY』7月号には、まさに「ヘアヌード」という言葉もなかった時代に産声をあげた創刊号の、ミニチュア復刻版が付いていた。この号の「プレイボーイ討論」というコーナーでとりあげられているのが「ヘア」の話題で、次のような見出しからも、「ヘアヌード」が珍しかった時代のナイーブさがうかがわれるだろう。

 「日本版に勇気あるなら…」「衝撃だった無修整のヌード」「ヘアだって人体の一部だ」「ヘアを出すのは非人間的」「取締まりを反省した西ドイツ」

 陰毛が見えるか見えないかが、わいせつの慣例的な基準になっていたというのも馬鹿げた話だが、ともあれ、そこには基準があり、駆け引きがあり、その是非をめぐる意見があった。映画を観ていて、股間でボカシがボヨボヨ動いていれば、嫌でも「ヘア」という問題を意識せざるをえなかった。

 ところが90年代初頭に、じっさいに何があったのかわからないが、突然「ヘア」が黙認されるようになった。それによって作る側は「ヘアヌード」というマーケットを開拓し、観る側は念願の「ヘア」に群がり、取り締まる側は規制を意識されないようになった。「ヘア」解禁は、誰も損をしない絶妙な落としどころだったのだろう。ボカシはバブルとともに消え、「ヘアはいやらしくない」「ヘアがある方が自然」とか何とか言いながら、「クスクス」「グフフ」という忍び笑いとともに、男も女もいくばくかの金をえたり、いくばくかの金を支払ったりしながら、パンツを脱いだのだった。

 反体制の時代の戦いの余韻を残した75年に日本版『PLAYBOY』は創刊され、初版45万8千部が午前中に売り切れるという伝説を作った。だが、そうした伝説や画期的な誌面が「ヘア」問題に影響を与えることはなかった。影響を与えるはずがない、「プレイボーイ討論」とは裏腹に、創刊号から「ヘア」はそもそも身体に存在しないかのように、美しく修整されていたのだから。

 日本版『PLAYBOY』がほんとうに画期的だったのは、戦いなき忍び笑いの時代を、いちはやく体現したことだったのではないだろうか。初版45万8千部という数字は、そんな時代への大きな共感を示しているに違いない。

 戦いなき時代には敗北もない。が、勝利もない。30年という歳月を隔てているにもかかわらず、創刊号復刻版を見ていても、不思議と懐かしいという感じがしない。敗北も勝利もない時代の想い出の味は、苦くも甘くもなく、かすかに侘びしい。