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[書評:浮かび上がる“負の昭和”・江成常夫『レンズに映った昭和』/日本カメラ2005年7月号:211]


レンズに映った昭和 (集英社新書)  本書は、写真家として"負の昭和"にこだわり続けてきた江成常夫が、今日に至るまでの道程を自ら綴った一冊である。

 「戦争花嫁」「満州国」「ヒロシマ」といったテーマが、いかなる思考のもとに展開されてきたのかが語られた部分が貴重であるのはもちろんだが、多くの読者にとって興味深いのは、新聞社を離れ、コンテンポラリーフォトの本場ニューヨークで一年を過ごしたくだりではないだろうか。この経験によって江成は、「写真は対象を真っ直ぐ見詰めてこそ本来の力を発揮する」「表現としての写真にとって、技巧は本質を曖昧にしてしまう」という、その後の展開の基盤となる方法論を見出すことになる。日本の写真において、江成の仕事は、コンテンポラリーフォトや現代写真と呼ばれるものとは異質なものとして捉えられているかもしれない。しかし実は、彼の仕事の核は、写真とは何か、表現とは何かという、きわめて真摯な、現代写真的な問いから生まれたものだったのである。江成は次のように述べる。

 「私はフリーランスとして歩むようになってから、表現を生業とする者は、対象との関係性と仕事の文脈にこだわることが、対象に対しての責任と信頼の獲得に通じる、と信じてきた」

 日本の現代写真では、技巧の新奇さのみが注目され、海外の動向が紹介されるときも、社会的な視座が消去されていることがほとんどである。社会性を消去することが表現の役割になっている、とすら言えるかもしれない。しかし、社会性と隔絶した表現など成り立つはずがない。国際的な現代写真においては、江成のようなこだわりの方が、むしろスタンダードなのである。にもかかわらず、それが異質に見えてしまう日本の写真というのは、いったい何なのだろうか。

 『レンズに映った昭和』が照らし出すのは、日本の現代史における"負の昭和"を浮かび上がらせてきた孤高の仕事であり、その孤高の仕事は、日本の写真史における"負の昭和"をも浮かび上がらせる。それゆえに、江成の次のような問いは、果てしなく重い。

 「記録を本道とする写真はいつの時代であれ、ほかの表現分野以上に時代と社会に正面から向かい合う役割がある。その写真は断絶した昭和とどう対峙してきただろうか」