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[BOOK REVIEW:あなたの肉体は戦場だ!・ジョー・スペンス『私、階級、家族』萩原弘子訳/日本カメラ2005年7月号:209]


 情けないほど愚鈍なおっぱい。ジョー・スペンスのおっぱいをひとことで形容するなら、そんなふうに言えるのではないだろうか。

 スペンスは、女性としての自己と社会の諸問題に写真で取り組んだ写真家として知られており、いわゆるフェミニズムの文脈で紹介されることが多い作家である。例えば、『私、階級、家族 ジョー・スペンス自伝的写真』の帯には、次のように記されている。「階級、家族の拘束と格闘し、乳がん患者として医療の権威に立ち向かい、フォトセラピーによる心身の解放を追求して、1992年に亡くなったスペンスが、ここに甦る」。

 しかし、何かに立ち向かい、戦い、解放するという行為と、スペンスの愚鈍なおっぱいとは、どこか噛み合わない感じがする。愚鈍なおっぱいとは何か。それは別に醜いというわけではない。だが、とりたてて美しいわけでもない。美醜の範疇に組み入れられることなく、ただそこにあるということが、おそらくは愚鈍なのである。愚鈍なおっぱい、愚鈍な肉体といったものは、べつに珍しいものでもないだろう。風呂上がりにふと鏡に映ってしまった自分の肉体などは、たいていの人にとって愚鈍きわまりないものに違いない。にもかかわらず、愚鈍な肉体のイメージを目にすることは、ほとんどない。私たちは日常的に自らの肉体と欲望を教化し、愚鈍なイメージを徹底的に排除しているからだ。

 スペンスのおっぱいに匹敵するような愚鈍なイメージが他にあるだろうか。考えてみても、なかなか思い当たらない。強いて言えば、昔のエロ本で肢体を投げ出していたセーラー服を着た中年女性くらいだろうか。もちろん、スペンスのおっぱいとエロ本のセーラー服に類似性を見出すことは、適切ではない。だがそのイメージの共通点をあげてみることは、無駄ではないだろう。それらはどちらも、自らの肉体をさらけ出し、男性的な欲望を裏切っている。それらはどちらも、アートではない。

 スペンスの写真が独創的であったのは、これらの点を真に創造的な活動として位置づけたことにあるのではないだろうか。男性的な欲望という制度に立ち向かい、アートという制度に直接問いかけても、それらの制度が揺らぐわけではない。そうした問いかけもまた、制度の一部なのだから。例えば、エロ本のセーラー服を男性的な欲望がたやすく飲み込んでしまうように、軽やかにセーラー服と戯れたコスプレ・セルフポートレイトなどは、アートがたやすく消費してしまうだろう。それゆえスペンスは、それらの制度が刻まれた自らの肉体に直接問いかける。“Your body is a battleground(あなたの肉体は戦場だ)”というTシャツを作ったり着たりするのではなく、スペンスは自己の肉体を戦場にしたのである。

 したがって、『私、階級、家族 ジョー・スペンス自伝的写真』は、鑑賞すべき本ではなく、肉体という戦場の地図であり、それは読者にこう呼びかけているように思われる。“第二、第三の愚鈍なおっぱい、愚鈍な肉体のイメージを!”