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[書評:写しとられた無数の「生の傷痕たち」・石内都『キズアト』『scars』/日本カメラ2005年5月号:193]


キズアト scars

 誤解をおそれずに言うならば、石内都は、見なくてもいい写真を作る、数少ない写真家のひとりだと思う。見なくてもいい写真とは何か。それを言うのは難しい。だが逆に、見るべきだと思わせる写真なら、容易に言うことができる。それは、記録や芸術としての写真である。それらは社会的にも、見たほうがいいものとされているのだから。

 文章と写真で編まれた『キズアト』で、母が遺した写真について、石内は次のように述べている。

 「今はいない人の思い出や記録は矛盾に満ちている。いつどこで撮られたのか、さっぱりわからない写真を見ても、思い出すものが何もない。ただ母が写っている。その母は亡くなってもういないのだから、のこされた写真はすべて遺影になったわけである」

 記録や芸術としての写真が見るべきものだとされているのは、それらが現実と何らかの有用なつながりをもっているからだろう。現実とのつながりを欠いてしまった写真は、石内の言う遺影のようなものである。つながるところのない遺影は赤裸々だ。それが赤裸々なのは、私的だからなのではない。私的ですらないものが遺っていることが、赤裸々なのである。こうして偶然にも遺され、その赤裸々さゆえに、必然的に私たちを支配するものとは何か。現代思想ならそれを痕跡と呼び、精神分析ならそれを運命と呼ぶだろう。

 今回『キズアト』とほぼ同時に出版された石内の写真集は、『SCARS』と名づけられている。このタイトルは、撮られているものが傷だからという以上のものを象徴しているように思える。見る見ないにかかわらず、いやおうなく存在し、私たちを動かす痕跡=運命を、石内は"傷痕"と呼んでいるように思われるのである。

 『キズアト』と『SCARS』という二冊の"傷痕"は、記録でもなく芸術でもなく、偶然を超えた好運として、今、私たちの手元へと届けられている。