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[BOOK REVIEW:ある中国人写真家の文化大革命をめぐる秘蔵のアーカイヴ・李振盛『紅色新聞兵』/日本カメラ2005年4月号:191]


紅色新聞兵  教科書的な写真史によると、ヒューマニズムに支えられたフォト・ジャーナリズムは70年代初頭には影響力を失い、それにかわって、『コンテンポラリー・フォトグラファーズ』展(66年)などにみられるような、パーソナルなまなざしによる表現があらわれてきた、ということになっている。単純化するなら、70年あたりを境に、写真表現が公的なものから私的なものへと転回した、という歴史観である。

 アメリカでそうした転回が起きていた時代、遠く離れた中国で、文化大革命が進行するさなか、仕事で撮影したネガの一部を切り取り小袋に入れ、油布で包み床下の穴に隠して保存していたひとりの男がいた。「黒竜江日報」にフォト・ジャーナリストとして勤務していた"紅色新聞兵"、李振盛である。彼が保存していた約三万枚ものネガを、三年間を費やして、リサーチ、検証し、手記とともに編んだのが本書『紅色新聞兵』だ。

 この本を作るうえで、いくつかのガイドラインが定められているのだが、そのなかに「写真はいっさいトリミングしないこと」という一項があるのが興味深い。というのも、写真をトリミングせずに提示するという方法は、歴史的に言えば、コンテンポラリー写真以後に主流になった方法だからである。それ以前のフォト・ジャーナリズムにおいては、写真はトリミングを前提に撮影されるものであり、また、用法に応じてトリミングされるものであった。つまり、ノートリミングという方法は、作者のパーソナルなまなざしが改変されていないことを提示するための、きわめて作為的な方法なのだ。

 すると、いま、こうしてノートリミングで日の目を見た李振盛の貴重な写真は、公的なものなのか、私的なものなのか?

 一方でそれは、疑問の余地なく公的なものである。なぜなら、仕事として撮影されたものなのだから。しかし他方で、これほど私的な写真もないとも言える。なぜなら、任務に適さないと李が判断し、本人ですら一瞬しか見ることなく隠し持っていたものなのだから。

 ひとつだけ確かに言えることは、もっとも公的でかつ私的な、このたぐいまれな感光された歴史の真実は、誰の目にもさらされることなかったその間、あらゆる歴史観や表現の潮流と無縁に、油布に包まれたフィルムの表層で深く沈黙していたということである。ネガの行く末もわからなかったときに、誰のためにでもなく、もちろん自分のためにでもなく、己の危険も顧みずにそれを保持し続けた、フィルムへのはかりしれない敬意。本書に収められた写真が感動的なのは、トリミングされていないそのフレームが、そんな李の途方もない無償の情熱の痕跡として焼き付けられているからではないだろうか。