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[書評:メビウスの輪のように結ばれた写真と文学・高梨豊『ノスタルジア』/日本カメラ2005年1月号:219]


 ひさびさのカラー写真集となる本書について、高梨豊は「カラー・ポジを選択したのは/内面への回路を絶つためである」と言っている。

 「…この仕事にあっての決めごとは/『底なしの深さのなさ』/その表面性と正対することである/…内面から遠く離れてノスタルジアは/ものの表面に浮上する」

 カラー・ポジが内面ではなく表面を照らし出すと考えること、そう考えるだけでなくそれをあえて記すというそのことに、驚きを感じずにはいられない。70年代にではなくこの時代に、なぜそのようなことが可能なのだろうか。

 本書には、作品についての手書きの文字やスケッチが収められた頁があり、また小冊子のモノクローム作品『WINDSCAPE』が綴じ込んである。これらは非常に魅力的だ。というより率直に言うなら、これらが写真集に挿入されていることで、カラー作品が味気ないものに見えるのである。だが高梨はなぜ、一方で内面への回路を絶つ作品を展開しようとしながら、他方でそこに内面への回路そのものであるような手書きの痕跡やモノクローム作品を組み込んだのだろうか。

 手書きで書かれた詩のような言葉を読み、『WINDSCAPE』を見ればわかるように、高梨にとって文学的な修辞を用いて豊かな内面を描くことは、実にたやすいことに違いない。内面への回路を絶つことですら、「底なしの深さのなさ」というふうに美しく語られているのだから。しかし高梨は、多くの写真家のように文学的な修辞(ないしは文学的な修辞の否定という文学的修辞)によって直接的に自らの写真を名指そうとしているわけではない。そうではなく、それは直接的には写真に交わることのない、いわば迂回路のようなものとして用いられているのである。

 写真と文学は裏表の関係にありながら、メビウスの輪のように結ばれている。言葉で写真を名指そうとしても両者は交わることはないし、いくら写真が言葉を拒み、切断しようとしても、写真と文学は離れることはない。写真のコンテンポラリーを体現してきた高梨は、直感的にこのことを誰よりも深く識っているように思える。

 迂回路から出会うカラー作品は味気なく、文学的な魅力がない。が、それゆえに例えようもなく魅惑的だ。そしてそれは、70年代にではなくこの時代だからこそ、いっそう魅惑的な輝きを放っている。