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[写真の技法 序説/photographers' gallery press no.3 2004年4月刊:150-153]


0.

――私たちを捉えている問題の困難さはみな、知覚をちょうど、事物を写真にとった景観のように思うところからきている。すなわちそれは、知覚器官という特殊な装置によって、一定の地点から撮影されたのち、脳髄の中で、何か不思議な化学的、心理的な仕上げの過程をへて現像されるのだろう、というわけだ。しかしかりに写真があるとしたら、写真は事物の内部で、空間のあらゆる点に向けてすでに撮影され、すでに現像されていることを、どうしてみとめないわけにいくであろうか。――アンリ・ベルクソン『物質と記憶』

1.

 エドワード・ウェストンは、自己の表現観を次のように述べている。
 私はいっさい先入観をもたずに始める
 発見に興奮し、焦点を合わせる
 するとレンズを通して再発見できる
 最終的な像の形がすりガラスに写り、
 露出まえに、仕上がりプリントの
 あらゆる細部の質感、動き、調和に至るまで
 予見できる。
 自動的にシャッターが降り、
 ついに私の構想が定着する
 後から修正する余地はない
 結局のところ、プリントは私がカメラを通して見たり感じたりしたもの、
 そのすべてを複写したものなのだ。
 ピクトリアリズムからストレート・フォトグラフィーへの転回を体現したウェストンが述べたこのマニフェストとも言える文章には、いささか不可解な構図が孕まれているようにみえる。
 「シャッターが降り、後から修正する余地はない」という点において、主張されているのは、まぎれもなくストレート・フォトグラフィーの構図そのものだろう。けれども、この文章において実際に強調されているのは、「シャッターが降り」ることではなく、「予見」なのである。つまり、ここからこの文章を読み取るならば、ウェストンにとって写真を撮ることとは、「後から修正する余地はない」営為であるのはもちろんのこと、「シャッターが降り」ることすらも、さほど重要ではない、「予見」を「定着」する営為であることになるだろう。
 ウェストンの写真は、即物的な表現であると語られることが多い。しかし、この文章を読む限り、彼の表現は、即物的であるどころか、極度に観念的な表現だと言うべきであろう。なにしろ、「プリント」は「予見」したものすべての「複写」だと言うのだから。もちろん、一方で写真を撮るという直截な営為を強調しつつ、他方で写真を撮るための観念を強調するこの矛盾、つまり、スーザン・ソンタグが〈写真が世界にかかわるものである(あるいはそうあるべきだが)かぎり、写真家はあまり価値がないが、それが大胆な主観性探求の道具であるかぎり、写真家はすべてなのである〉と言うところに典型的にみられる矛盾は、ストレート・フォトグラフィーをめぐる言説がもともと孕んでいたものでもある。しかし、ここで注目しておきたいのは、その矛盾そのものではなく、そうした矛盾をめぐることではじめて培われたであろう、ウェストンの精神性と写真を作る技術との独特な関係である。
 ウェストンが、ピクトリアリズムからストレート・フォトグラフィーへと転回していったとき、彼が見出したのは、確かに、写真を作る過程で手を加えないことで得られる、写真独自の美的な何かであっただろう。しかし同時に、手を加えないことが美的な何かに結び付けられるためには、彼の精神性もまた新たに形作られなければならなかっただろう。また、こうした精神性なしに、即物的と語られる彼の写真を作る技術が規定されることも、ありえなかったであろう。この点から考えるなら、ウェストンの先の文章は、自身の表現観を述べたマニフェストであるだけでなく、こうした独特な精神性の構図を描く、写真表現の技法と呼ぶべきものではないだろうか。

2.

 このような観点から、ウェストンの「予見」に、いまいちど着目してみよう。「露出まえに、仕上がりプリントの/あらゆる細部の質感、動き、調和に至るまで/予見できる。/自動的にシャッターが降り、/ついに私の構想が定着する」と、彼は述べた。この文章の不可解なところは、熟達した技術によってもたらされたようにみえる、あの即物的と語られる写真が、彼が述べるところによれば必ずしもそうではなく、いわば方法化された予見によって導き出されたものであることにある。
 写真を撮り、フィルムに定着された像を、プリントに焼き付けて見る。普段、写真を撮ると言うとき、想定されているのは、こうした一連の行為であろう。ウェストンの文章の不可解さは、この一連の行為が、分節され、語られていることに由来するものでもある。一連の行為を分節して考えるとき気づくのは、撮るという営為が、まさにシャッターを降ろすということ以外の何ものでもないことである。写真を撮るという営為それ自体は、見るという営為とは何のつながりもなく、ただ単にシャッターを降ろすということ、それ以上でも以下でもない。
 言い換えれば、たとえどれほど熟達した技術を持つ写真家であろうと、写真を撮るそのときに、定着された像そのものを見ることはできない。なぜなら、写真を撮るということは、シャッターを降ろし、像をフィルムに定着するということであって、像が定着されるそのとき、像が写っている面は、必ずフィルムによって覆われているからである。したがって、写真を撮るという営為が、ただ単にシャッターを降ろすことでないとするならば、写真家は何らかの意味で、写される像を予見する必要があることになるだろう。逆に言えば、ウェストンの述べるように、充分な予見が得られさえすれば、後はシャッターが自動的に降りればよいのである。
 しかし、それでは、この「予見」はいったいどのようにすれば、得られるものなのだろうか。「私はいっさい先入観をもたずに始める/発見に興奮し、焦点を合わせる」と、ウェストンは言う。「先入観をもたず」に「予見」を得るとは、いったいどのような方法によって可能になるのだろうか。このいっけん相反する行為の共存については、「事象そのものへ」を符牒とする、現象学との類比によって考えるのが適切であるように思われる。 端的に言えば、現象学の方法の要点とは、日常の認識や行為の暗黙の前提を退け、対象の措定の仕方を括弧にいれて、認識や行為、対象の与えられ方の仕組みを記述し、意識に与えられている事象が、意識の相関物、その志向性の産物であることを照し出すことである。ロラン・バルトの『明るい部屋』をめぐった文章の中で、ヴィクター・バーギンは、この志向性について次のように述べている。
 …現象学にとって欠くことのできない概念が、「志向性」の概念である。つまり、私にとって事物が存在するのは、(私が事物を単に受動的に「知覚」しているからではなく)偏に私が意識の中でそれを能動的に「志向」するからなのだ。精神とは、世界が像をその上に投影する単なるスクリーンではない。現象を「理解しようとする」とき、精神もまたある意味でプロジェクターとなり、その現象の上にさまざまな事物からなる一つの世界を投射しているというわけである。
 これに続いてバーギンは、〈…現象学にのみ依拠する写真理論が即座に直面することになる問題とは、それが、写真とたとえば水晶球…に「映った」映像とを区別しえないという問題なのだ〉、と言う。しかし、この問題は、ウェストンにとって問題であるどころか、ストレート・フォトグラフィーへの転回によって、写真を作る過程で手を加えないことで生まれた、精神性と写真を作る技術の隔たりに、写真独自の美的な何かを見出す絶好の方法となることだろう。写真とすりガラスに映った像を区別しえないこと、まさにそのことによってのみ、「プリントは私がカメラを通して見たり感じたりしたもの、/そのすべてを複写したもの」に、なりうるのだから。「先入観をもたず」に「予見」を得ること、それは志向性によって、写真とすりガラスに映った像を混同する、ないしは等価とみなすことによって形作られた方法に他なるまい。

3.

 ところで、ロラン・バルトは、『明るい部屋』で次のように述べている。
 絵画や言説における模倣とちがって、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定がある。そしてこのような制約はただ「写真」にとってしか存在しないのだから、これを還元することによって、「写真」の本質そのもの、「写真」のノエマと見なされなければならない。私がある一枚の写真を通して志向するもの…、それは「芸術」でも「コミュニケーション」でもなく、「指向作用」であって、これが「写真」の基礎となる秩序なのである。  それゆえ、「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。
 写真の本質を、事物がかつてそこにあった、という指向作用に見出すバルトは、続けて次のように述べる。〈普通は事物の存在を確認したのち、それが《真実である》と言うはずであるから、私の場合は逆説的な順序に従ったということになるが、私はある新しい経験、強度というものの経験の結果、映像の真実性から、その映像の起源にあるものの現実性を引き出したのだ。私は独特な感動のうちに真実と現実とを融合させたのであって、いまや私は、そこにこそ「写真」の本性――精髄があるとしたのである〉。
 バルトの言う、映像の真実性から、その現実性を引き出すという逆説的な順序は、先入観を捨てることで得られる、つねに新しい撮るという経験の強度、すりガラスに写った像という真実、それが定着したところから遡行して引き出される現実性というウェストンの写真観と、相似的な構図を描いているように思われる。この相似において、共有されているものは何だろうか。ひとつは言うまでもなく、無時間的な映像であると言われる写真の共時的な位相で見出された真実性から、遡行して現実性が見出され、それらが融合するという、時間の捩れとその共存である。そして、もうひとつは、バーギンが〈『明るい部屋』の中でバルトが取り扱っているのは、…写真の一般的現象ではなく、むしろ想像力の「志向性」の切なる思いのほうなのである〉、と言うところにみられる意味での志向性だろう。
 志向性の切なる思いのなかで見出される、真実性と、遡行して引き出される現実性において、時間は捩れそして融合する。しかし、このような過程にまつわる言説は、現象学が示唆するように、認識や行為、対象の与えられ方の仕組みの記述なのだろうか。言い換えれば、ウェストンにみられるように、写真独自の感動や経験として語られることが多いこうした言説化された過程は、単なる感動や経験の仕組みの記述にすぎないのだろうか。ウェストンの表現観を、独特な精神性の構図としての、写真表現の技法と捉えるならば、そうではなく逆に、方法化された志向性の切なる思いが形作る感動や経験の在りかにこそ、焦点が当てられてしかるべきであろう。

4.

 写真を見る、と私たちは言う。写真を見るためには、写真が何らかの形で対象化されなければならないだろう。けれども、写真を見るということは、通常、写真を対象化して捉える、というよりも、写真によって対象化された何かを捉える、ないしは、写っている何かを写真として捉える、ということではないだろうか。写真を見るとき、写真と写真に写されたものを二重に対象化しているという点、そしてそうした二重の対象化が、志向性の切なる思いが切実であればあるほど鮮明に浮び上るという点で、バルトの言う〈現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定〉は、実はさほど珍しくなく実感されることに違いない。
 だが、そもそも、私たちはいったいどのような営為を指して、写真を見る、と言っているのだろうか。例えば、私たちはどのような時間性の中で、いったいいつ写真を見始め、そして、見終えているのだろうか。しかし、まず、このように問いを置き換えるとき、すでに、見えるということと在るということが、混同されている恐れがあることに注意しなければならないだろう。見始め/見終えるという関係における差異は、見える/見えないという関係に基づく差異であって、存在/不在の差異とは質的に異なっている。写真を見始め、そして、見終えるというような問いの構図が形作られるためには、写真が当然のこととして存在していなければならない。つまり、見える/見えないという差異は、すでに見えなくても在るということに支えられているのである。
 それでは、存在/不在の差異とは、どのような次元に属するものなのだろうか。存在/不在の差異とは、ある絶対的な差異の次元、つまり、在ると無いではなく、在るか無いかという次元の差異と言えるだろう。この在るか無いかという次元の差異が、何らかの形で在ると無いという次元の差異に移し換えられるときはじめて、見えなくても在るということが成立し、見える/見えないという差異が成り立ってくるのである。
 ここで、事物がかつてそこにあったというふうに、写真から遡行して引き出される現実性とは、いかなる次元のものなのか考えてみよう。写真から引き出される、事物がかつてそこにあったということ、そこには、見えなくても在るということがありえないのだから、それはまさに、在ると無いという差異を欠いた次元、つまり、在るか無いかという次元の差異を浮び上らせるものであろう。換言すれば、《それは=かつて=あった》という写真のノエマが照し出すのは、その言葉の響きに反して、現在と過去、在ると無いという差異における現実性ではなく、存在様式以前の無時間的な現実性に他ならない。ここに何らかの時間性が生じるとすれば、それは《それは=かつて=あった》という写真のノエマにおいてではなく、写真から遡行するという点に求められるべきであろう。
 こうしたことから、先入観を捨てることで得られる、つねに新しい撮るという経験の強度、すりガラスに写った像という真実、それが定着したところから遡行して引き出される現実性というウェストンの写真観を捉え返してみるならば、それが、存在様式以前の在るか無いかという次元の差異を、方法化された志向性の切なる思いにおける、遡行という時間の捩れによって、見える/見えないという差異の次元に逆説的に織り込み、感動や経験そのものを、写真の共時的な位相に見出す技法であることが、明らかになってくるだろう。この意味で、ウェストンのマニフェストは、写真行為における感動や経験の仕組みの単なる記述、あるいは、言説化された過程ではむろんなく、その言説そのものが、写真行為に感動や経験を呼び込むための、写真行為の分節の技法を示唆したものだということになる。ここからみるならば、写真は無時間的な映像であるということよりも、写真がいかに自らを存在様式以前の無時間的な現実性に関係づけるのかが、考えられなければならないということになるだろう。比喩的に言えば、写真は瞬間を捉えるではなく、瞬間なるものを作り出しているのである。

5.

 しかし、存在様式以前の現実性とはどのようなものなのだろうか。存在様式以前のものであるということは、それが誰にも確かめることはできない一種の仮説であることを意味する。だとすれば、その仮説を可能にし、存在様式以前の現実性を無時間性のなかに捉えている視点がまず問われなければならないだろう。
 『物質と記憶』において、〈一見して事態はすべて明白であるにもかかわらず、私は私の意識的自我から私の身体へ、ついで私の身体から他の物体へ進むというふうな主張がなぜなされるのか。事実はこれに反して、私ははじめから物質界全体に位置するのであり、やがて私の身体とよぶこの行動の中心をしだいに限定し、こうして他のすべてからこれを区別するに至るのだ〉と述べるアンリ・ベルクソンは、次のように言っている。
 これらの事実のうちで第一のものは、私たちの官能が教育を必要とするということである。視覚にしても触覚にしても、その印象をはじめからすぐ限局するわけにいかない。一連の照合や帰納が必要であって、私たちはそれらを通じ、自分のいくつかの印象を少しずつ互いに統制していくわけだ。ここからしてひとは、感覚というものは本質上ひろがりをもたないもので、並置されるから延長を構成するようになるのだろうと早合点する。しかしだれの眼にも明らかなように、まさに私たちが立脚している仮説のもとでも、私たちの官能は、――たぶん事物と合致を見るためではないとしても相互に合致を見るために、――やはり教育を必要とするであろう。
 〈私ははじめから物質界全体に位置する〉と主張するベルクソンにとって、意識とは、実在する物質の一部分である知覚のイマージュによって描かれた身体の行動を統制するものにほかならない。それゆえ、〈意識とは可能的行動を意味する〉。このような観点から、ウェストンの写真行為を捉え返してみるなら、それは、レンズを通して意識を投射して何かを見出すことではいささかもないだろう。先入観を持たずに直感的に発見する対象とは、外的なものではなく、予見された写真そのものである。私はすでに物質界に存在し、写真はすでに撮られている、それゆえにそれはウェストンにとって「再発見」されるべきものなのだ。ここにおける、存在様式以前の現実性とは、認識論的な過去ではなく、存在論的な過去、つまり過ぎ去った現在として空間化されたものではなく、現在とは別の次元で存在し、つねに現在という瞬間において知覚される過去である。ベルクソンは、こう言っている。
 物質が過去を記憶しないとすれば、それは物質が過去をたえず反復するからであり、必然の支配下に、それぞれ先立つものと等価でそこから導出されうるような諸瞬間の系列をくりひろげるからである。このようにして、物質の過去はまぎれもなくその現在のうちにあたえられている。しかし多少とも自由に進化する存在は、刻一刻新しいものを創造する。だから、もし過去が記憶の状態でその中に沈殿しているのでないとしたら、その現在の内にその過去を読もうと努めても無駄であろう。…過去は物質によって演ぜられ、精神によって思い浮かべられるのでなくてはならぬ。
 このように考えるなら、写真が自らを存在様式以前の無時間的な現実性に関係づけているようにみえるのは、それがつねに現在という瞬間において知覚されているがゆえに生じる、いわば認識論的な誤謬であるということになるだろう。そこにおいては、現実性とは無時間的なものではなく、瞬間の系列として展開される。ウェストンにとって、「複写」こそが新しい経験であり創造であったのは、それが身体を統制し限定する技法によってほかならぬこの現在に生じるイマージュだったからであろう。
 だが、この即自的な技法はいささか秘術めいている。この秘術を解き明かすこと、それは自己の身体を統制し限定する技術としての写真の技法を、時間の関数から思考してみることにほかならないだろう。

引用文献
『ふたりのまなざしを通して−ウェストン、アダムス自選ポートフォリオ』/原美術館 『写真論』スーザン・ソンタグ/晶文社
『現代美術の迷路』ヴィクター・バーギン/勁草書房
『明るい部屋』ロラン・バルト/みすず書房
『物質と記憶』アンリ・ベルグソン/白水社
注:本稿は『onlimits vol.2』(1996)所収の「写真の技法」を加筆・改稿したものです。