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[時評13:2.10/photographers' gallery 2004.02.10:http://www.pg-web.net/]




 最近クチャラー*1という言葉を見つけた。クチャラーを形容する声を読んでいると、気にならない人にとっては気にならないのかも知れないが、気になる人にとっては耐えがたい苦痛であることが伺われる。確かに満員電車で隣にガムのクチャラーがいたりすると、不愉快極まりない。この不快感は、例えば電車で携帯電話で平気で話している人や、脚を広げて座っている人に感じるものとは違っている。なぜなら、そうした人々はいわば確信犯であるのに対し、クチャラーはあまりにも無邪気にみえるからだ。

 相手が確信犯なら、注意するか我慢するか、とるべき態度ははっきりしている。だが、相手が無邪気な場合はそうはいかない。注意しても、相手はなぜ注意されるのかがわからないかも知れないのであり、我慢するとしても、相手が不快感を与えているとは微塵も思っていないということを受け容れるという理不尽さを感じるからである。そうこうしているうちに、そういうことを自分だけが考え続けているというストレスも加わる。だからこそ、クチャラーと形容し、他の人と不快感を共有することが、ささやかではあるが慰めにもなるのであろう。

 このように考えると、無邪気な相手から感じる他の人と共有できない出来事がもっとも不愉快だということになる。だとすると、クチャラーよりも携帯電話よりも脚広げよりも、電車のなかの出来事で不快に感じることがある。座れる席は空いているのだが、そこにジャケットの裾がわずかにはみだしている。座る意思を示しながら若干の時間の猶予をおいても、裾を引いてくれる気配がまったくない。仕方なくそのまま裾をお尻で踏んで座ると、ものすごく嫌そうに裾を引っぱる。ここで名づけることで少々ストレスを発散させて頂くが、いわゆる裾踏み問題*2がそれである。

 裾踏み問題が、なぜかくも不愉快なのか。それは、携帯電話の使用や脚を広げていることがいかにも非常識に見えるのに対し、背広やコートを着用している人で見るからに非常識に見える人は少なく、裾が微妙にはみ出ているのは意図的ではないように見えるからだ。裾がはみ出ているのはまったく悪意のない過失であり、それをお尻で踏んで座る方がかえって意図的に見える。これほど理不尽なことを、数センチの自己主張によってなしとげてしまうのは悪質としか言いようがない。同じ踏むなら、犬の糞でも踏んだ方がまだずっとましだ。

 ところで、以前何かの本を読んでいたときに、こういう話が書いてあった。一人しか救助できない船に乗っていて、二人の溺れる人を発見した時どうするか。二人とも乗せよ、なぜなら三人とも助かるか、三人とも助からないのが最善だからだ。人生において、実際にこのような場面に遭遇することはまれであろう。しかし、裾踏み問題は、人生において何度も遭遇してしまう、同じくらいに理不尽な難問に思われる。裾踏み問題に対しての最善の対処法とは何だろうか。悩ましい。

 とりあえず僕は、裾がはみ出ていたら、躊躇なくあたかもそれがこの世に存在しないかのように踏み、微動だにしないことにしている。最近ではそれに慣れて、ほんとうに気にせずに座れるようになった。これもまた人生だろう。

[注]
(1)クチャラーがあるならシャカラーもあるかと思ったら、どうやらシャカラーという言葉はないようだ。名称もつかないくらい市民権を得ているのか、あるいは別の名称で呼ばれているのだろうか。

(2)とりあえずこれを不快に思っていることがひとりではないようなので、敬意を表してこれを「裾踏み問題」と名づけてみた。