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[時評12:シャッフル/photographers' gallery 2004.01.31:http://www.pg-web.net/]




 具体的な製品名を書かなくてもわかるくらいに、デジタルミュージックプレーヤーではある製品の一人勝ちの状態が続いている。発売されたときは、冷笑すらされたその製品が爆発的に普及(といっても市場自体の規模も大きくはないのだろうが)したのは、シンクロの出来のよさと、スタンドアローンとしての完成度のバランスが絶妙だったからだろう。

 シンクロ機能がある機器を使ったことがある人なら感覚的にわかると思うが、出来のいいシンクロ機能というのは、一度使うと手放せない。だが、シンクロ機能を備えた機器は、どうしてもメインとサブという使い方になってくる。そもそもそういう用途なのだから当然だが、PDAがわかりやすい例だろう。サブ機であるPDAにスタンドアローンとしての完成度を求めていくと、限りなくメイン機であるパソコンに近いものにり、PDAであることの意味がなくなってしまう。

 完成度が高いわけではないが、スタンドアローン性が高いがゆえに普及したのが携帯電話だろう。現在の携帯電話は、メーラーでもありウェッブブラウザでもありゲーム機でもあり時計でもありカメラでもあり…もちろん電話でもあるという、十徳ナイフのようなコンセプトとしては不格好なものだ。しかし、それでもこれだけ普及しているというのは、とりあえず携帯電話だけあればそれらの機能が充分に使えるからだろう(現在の携帯電話にはシンクロ機能が乏しいが、通信機能がそれを補っている側面がある。また、いちおうは本来電話であるというイメージが、PDAのようでPDAではないという微妙なアンバランスを支えている。今後こうした前提条件に大きな変化があれば、現在の携帯電話はあっという間に陳腐化するに違いない)。

 さて、話をデジタルミュージックプレーヤーに戻すと、その製品の普及で意外な人気を呼んだのがシャッフル機能である。シャッフル機能は携帯型ミュージックプレーヤーに以前から備わっているものだが、10曲をシャッフルするのと、何千曲をシャッフルするのでは次元が違う。10分間音楽を聴くのでは、どちらも変わりはないかも知れないが、数時間音楽を聴くという最も多いシチュエーションにおいては、感覚的に全く違う無限を思わせるような世界が浮かび上がってくる(少なくともそういう気分にさせてくれる)。

 こういったことが興味深いのは、シンクロとスタンドアローンという概念が、他者との関係と自己という古めかしい近代的な概念のアナロジーそのものであり、その概念のなかで、シャッフルという機能が、人間の時間が有限であるからこそ、無限を錯覚するということを照らし出していることだろう。

 そして、もうひとつ興味深いのは、こうした聴取の変化が、複製技術の発達によってもたらされていることである。例えば、レコードにおけるコンセプトアルバムという概念は、いっけんアーティスト性*1を保障するものにも見えたが、多くの音楽がデジタル化された現在から振り返れば、楽曲*2という単位に解体され、シャッフルされる過程でしかなかった。そう考えるなら、現在音楽において著作権が大きなトピックになっているのは当然である。

 では、複製技術にかかわる他の表現の現在はどうだろうか。近代的な概念のアナロジーを今日的な形態で提供できないようなメディアは解体されることもないだろうが、結局はレガシーとなって朽ちていくほかないように思われる。

[注]

(1)昔はアーティストとは言わなかった。歌い手は、たんに歌手と呼ばれていた。その後、自作自演の歌手をシンガーソングライターと呼ぶようになり、しばらくしてアーティストが登場したのである。

(2)昔は楽曲とは言わなかった。たんに唄と呼ばれていた。