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[時評11:笑い/photographers' gallery 2004.01.20:http://www.pg-web.net/]


 年が明けたからといって何かが変わったわけではないのだが、しかしやはり、年が明けてからはじめての文章として何を書くべきかを考えてしまう。考えているうちに新年という時期でもなくなっているのだが、するとますます、はじまりを逃してしまい、何を書くべきかを考えているうちに二月を迎えそうだ。

 昨年のある時期から、何を見聞きしてもふと笑ってしまう。きっかけは、必要があって調べものをしていた時に、10年以上前に書かれた、70年代の写真表現の再評価を疑問視している文章を見つけたことだった。その文章自体は別に面白いわけではなかったのだが、たまたまその数日前に、同じ書き手が同じ媒体に同じことを最近書いているのを読んでいたので、笑いがこみあげてきてしまったのである。その文章を嘲笑したわけではない。そうではなく、10年以上も経っているのに同じようなことをして同じようなものを発見している自分の滑稽な身振りがおかしくてたまらなくなってしまったのだ。

 それ以来、写真がどうとか、言葉がどうとか、意味がどうとか、中心がどうとか、それが真面目で内省的なものであればあるほど、笑いがこみあげてきてしまう。そしてその笑いの陰湿さ加減にまた笑い、陰湿さを笑う自分の偽善的な生真面目さにまた笑ってしまう。

 そもそも内省する身振りには、露悪的ないかがわしさがつきまとう。「このコップは実在しているのか?」――そんな問いかけを今さら露出してしまうのは、とんでもないカマトトではないだろうか。内省という名の思考の軌跡には、軌跡そのものを美化する軌跡が貼りついている。この二重化された軌跡は、一種の禁断の木の実なのではないだろうか。

 内省はどんな愚かな人間にも許されている美徳だ。と同時に、自分自身への最大の裏切りだ。何か意味のあることを言おうとして、自分自身を裏切り、世にもうるわしい理由を考えつき、それを口にしてしまう。ほんとうに笑えるのは、このことだ。何を書くべきかを考えてしまうと書いてしまう、そのことだ。