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[書評:継続した「現代」という名の驚くべき仕事群・富山治夫『現代語感』/日本カメラ2004年11月号:109]


 『現代語感 1960-2004』は、タイトルにもあるように、1960年代から今日に至るまでの、富山治夫による戯評的な写真をまとめたものである。富山が週刊誌の嘱託カメラマンになったのが58年だから、彼のプロフェッショナルとしてのキャリアにほぼ相当する年月に渡って、「現代語感」は撮影され続けてきたことになる。つまり「現代語感」は、富山のデビュー作であり、代表作であり、今なお継続中の作品でもあるわけだ。ひとつのシリーズが、これほど長い間に渡って展開され続けているのは、驚くべきことではないだろうか。
 そう考えたとき、もうひとつ驚くべきことに気づく。それは、タイトルに使われている「現代」という時代もまた、短く捉えるにしても同じだけの年月に渡って続いていることである。辞書を見ると「現代」とは、今の世、現在の時代、と書いてある。今という時代が半世紀も続いている、これは不思議な逆説ではないだろうか。
 本書にも再録されている、71年版の『現代語感』に寄せた開高健の文章に、次のような一節がある。「この集に見られる日本と日本人は誰も微笑していない。その眼に何があるか。絶望のかげろうだろうか。矛盾の国のコンクリートを裂いて生きていくためにはこうなるしかない姿態と眼がつかみとられている。あらゆるものがあり、事物までがじっとしていられない日本があり、力は沸騰しているが巨大なうつろさがある」。
 この指摘は、本書にも今の日本にもぴったりと当てはまるだろう。あらゆるものがあるがうつろな今という時代を、富山は流されることなくしっかりと見つめ続けてきた。それゆえ、本書にはいささかも古びていない44年間の「今」が圧縮されている。ほんとうに驚くべきは、時代に寄りそいながらも時代を超越した、富山のこの卓越した眼差しだと言うべきなのかもしれない。