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[書評:芸術の価値足りうること・村尾国士『おれは土門拳になる』/日本カメラ2004年1月号:101]


 『おれは土門拳になる』という題名を見て、誰しも思い出すのは、「わだばゴッホになる」と言った伝説の人、棟方志功ではないだろうか。12歳にして「おれ、土門拳になる」と言った少年の名は、増浦行仁。驚くべきことは、彼が伝説の人と言うにはまだまだ若い1963年生まれであることだ。
 小学生にして写真家を志していた増浦は、18歳で母に勘当されパリに向かい、憧れの写真家ギィ・ブルダンのアシスタントになるが、このままでは写真家にはなれないと彼のもとを離れ、一時はカメラから遠ざかる流転の日々が続いた。手首を切るほどすさんだ時期もあったが、理解者が現れ、マイヨール、ロダン、ブルデルといった後期印象派の彫刻作品を撮影し、高い評価を得るようになる。ミケランジェロの撮影では大きな困難が待ち受けていたが、いくつもの奇跡のような出来事を経て作品として結実させ、現在に至っている。
 作家が、追いつき、乗り越えるべき目標として語られなくなって久しい。そうした時代において、芸術は崇高であることをやめ、楽しく面白く共感を呼ぶものとして捉えられるようになった。今日、「おれは誰々になる」などと芸術家を目指すならば、嘲笑の対象になりかねないだろう。しかし、楽しく面白いことは、ほんとうに芸術の価値たりうるのだろうか。
 そんな時代の流れの対極で、増浦は、真摯な情熱だけが、自分を動かし人を動かし、不可能を可能にするという生きざまを刻んでいた。それはけっして楽しくて面白い道ではなかっただろうが、途方もなく充実しており、崇高にすら見える。人間味あふれるドキュメンタリーを得意とする村尾国士の視点が光る、感動的な一冊。