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[時評5:噂/photographers' gallery 2003.9.15:http://www.pg-web.net/]


 写真表現に興味を持ち、ギャラリーなどへ出歩くようになり、それなりに知り合いもできてくると、誰の耳にも噂のひとつやふたつは入るようになるだろう。曰く、「あの人は今はこういう作品作ってるけど、じつは昔はあんなことやってたんだよ」とか、「あの人はね、ほんとうはこういう人なんだよ」とか、「あの作品はみんなにこういう評判なんだよ」とか、云々。こういうのは上品な例だが。

 かつてテクスト論は、読者の誕生と作者の死を対置した。むろん、だからといって現実に作者がいなくなったわけではないのは周知の通りである。作者の自明性が疑われた結果、むしろ以前より、何かしらの形で作家が語り/語られなければならなくなったといっていい。

 作品がテクストとして読まれるということは、作者が作品を支える特権的な存在ではないということであり、したがって、今日の作品は、自らを支える外部をどこかに持たざるをえない。典型的な外部の例としては、美術館や評論などがあげられるだろうが、外部というのは何かであれば何でもいいのであって、そういった典型的なものである必要はない。典型的なものは、単純(な人)に特権的なものと見なされやすいことを考えれば、そうでない方がいいくらいだ。

 その意味で、噂とはさりげないながらもテクストの外部であり、それゆえ、「じつは」とか「ほんとうは」とか「みんな」といった、あたかも真実であるかのような言述の形をしていることもしばしばだ。

 もちろん、噂のみがテクストの外部として機能するということはない。より強力な外部があれば、噂などはどうでもよい、テクストをちょっと面白くしてくれる、ありふれた世間話のようなものだ。しかし、噂が最も強力なテクストの外部を構成しているような状態だったらどうだろう。

 噂というのは時に情報のようでもあるが、そうではない。ソースが明確で、何らかの形で開示可能なものが情報である。いかに見かけが情報のようなものであっても、ソースを示せないものは風聞にすぎない。記憶から恣意的に紡がれた経験談が、まるで重要な情報のように扱われることなどよくあることだろう。どうでもいいような噂が駆けめぐっているうちに、緊急の問題のように扱われることもある。おそらく本人はとてもいいことをしているつもりなのかもしれないが、いい大人が悪意のない真実の回覧板を得意げに配達して回っているのは、いかがなものだろう。こういうことを書いたところで、誰も自分のことだと思ったりはしないところが噂の面白いところでもある。「みんなはそう言っていたけど、じつは自分はおかしいと気づいていた、ほんとうはそう思っていなかった」のだろうから。

 しかしじつは、ほんとうの問題はそこにある。テクストの外部は、いかなる場合でも、法外な責任を強いる。何かを話すということは、意思とは無関係に、その責任を負うということだ。誰も責任を負わないテクストは、意味をなさず、ただ溶解する。テクストが溶解するのは誰のせいでもないが、みんなのせいでもない。

 宮沢賢治が書いた詩に、次のような一編がある。
今日の歴史や地誌の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や徳性はたゞ誤解からしょうじたとさへ見え
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ、

誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを云っているひまがあるのか

(「新編宮沢賢治詩集」新潮文庫)
 これが書かれたのは、1920年代後半のことである。それから70年以上経たわたくしたちの今日は、どのような時を刻んでいるのだろう。