texturehometext archivephoto worksaboutspecialarchive 2ueno osamu

[時評10:予言/photographers' gallery 2003.12.24:http://www.pg-web.net/]


 批評は予言ではない。だが、批評は構造的に避けがたく予言的ディスクールを含み込む。逆にいえば、予言的性格を含まないものは批評たりえない。それゆえ、予言的ディスクールをどのように扱うかは、批評の大きなアポリアであった。しかし、そんなことが問題になりえたのも批評が生きていた時代の話、昔の話である。

 とはいえ、批評が死んだからといって、批評が生み出した予言的性格が消滅したわけではない。それは姿を変えて、今日でも生き延びている。予言の今日的な姿とは何か。端的に言うならば、それは脅迫的ディスクールであろう。

 「こうなるであろう」というのが予言であり、「こうしないとこうなる」というのが脅迫だ。どちらも未来を語る点で、予言と脅迫は似ている。だが、特定の行動を迫るか否かで、予言と脅迫は異なっている。「あなたはいつか死ぬ」というのは予言的だが、「野菜を食べないと早く死ぬ」というのは脅迫的、「クリスマスには雪が降るだろう」というのは予言的だが、「雪が降っているのに外にいたら風邪をひく」というのは脅迫的だ。あえて他愛もない例を書いてみたが、脅迫の方がいっけん科学的ですらあり、予言と脅迫の差は微妙であることがわかるだろう。しかし、この差異は微妙だが重要だ。なぜなら、批評は脅迫ではないからであり、微妙な差異を乗り越えて脅迫をはじめたとき、批評が死んだからである。